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2010年10月31日日曜日

命の授業?

 娘の学校のPTAの研修で「命の授業」なるものがありまして、出席して来ました。




講師は児童文学作家で、この企画があがった時にその研修の内容になる本を読みました。全国で飼い主に捨てられ、殺処分になる犬が30万頭いるそうで、その姿から身勝手な人間と、命の大切さを学ぼうというような内容でした。


 人は善良で、間違い等起さない、もし間違いが起こったなら、それは社会が悪い・・・という左の人の常套文句、この国の目にあまる現状(犬に限らず)は、その末路だと僕は思っています。しかるに、その講義内容は・・・。まったくもって噴飯もの。まぁ、概ねそうだろうとは予想してましたけど。




 「命」に優劣はない。小さな子犬も人間も皆同じ命だと・・・


誤解を恐れずにいえば、僕はこういう言い方こそ間違いを生む元凶だと思っています。もし「命」というよりその価値に優劣がないのなら、僕ら人間が、老いも若きも幼きも、多くの動物を食していることをどのように説明するのか?同価値であるとしてしまったら説明などできるわけがないのです。


 だから、「人間」というものは何なのかを考える必要があるわけですね。それを考えさせずに「命」の話など、何の価値もない。全ての殺生を禁じるというのなら、理屈は通じますが、牛や豚や鳥はたらふく食べるくせに、命は等価値などというのは意味が通らないですね。


 犬や猫の殺処分を減らすのは、大人の責任で法改正が必要だと思います。


 
 「命」とか、「平和」とか、そう言う言葉にご用心ですよ。僕はその言葉に拒絶反応があります。




 ちなみに、捨て犬、捨て猫を減らすためには、イギリスがやっているように個体にチップを埋めることが有効でしょう。とにかく厳罰をもって臨むことが必要だと思います。それと、憐れな最終出口だけでなく、まるで商品のように幼い頃から売られている今のペットショップのあり方も入り口として検討すべきですね。社会化も済んでいない幼犬のうちから、人間に売るから犬のしつけがうまくいかなくなったり、その結果「馬鹿犬」として捨てられてしまったりする犬が多いのですよ。さらには、狭い檻の中で見世物になっている環境も規制すべきでしょうね。ヨーロッパでは店頭で犬を売ることは「虐待」として認められていないのですよ。


 江戸時代末期に訪れた外国人は江戸のまちの犬の多さに一様に驚き、その様子を書き残しています。そして、人間に虐待もされず、ことさらかわいがられもせず、人間の仲間として同じ場所で暮らしていると・・・。


 人間は万物の頂点にあるという、キリスト教の教えを聞くと、当時の日本人はみな驚いたと言われます。当時の日本人にとって、犬も猫も馬も牛も、等しく同じ「命」をもつ仲間だったのですね。彼らは獣の肉を食する習慣もありませんでしたし、馬は去勢もされてもいなかったし、牛の乳すら飲む習慣もなかった。「山川草木悉有皆仏性」という仏教的な要素があったことは確かでしょうね。


下田に居を構えた初代総領事ハリスが、奉行所に毎朝の「牛乳」の配給を望んだ時、断りの手紙には「牛の乳は子牛が飲むものだぞ、そんなことまでしなくても」というたしなめのニュアンスが感じられて当時の日本人の心情が微笑ましくなります。


 今日はこれまで。
 
 






 



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