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2010年11月1日月曜日

哀しき零戦

 日経「私の履歴書」。


 月が改まり、本日より三菱重工業相談役の西岡氏なる方に変わりました。連載初日から三菱名古屋工場のシンボルの撤去を中止させたという内容が出てました。記事にあった通り三菱の名古屋工場というのは、かつての海軍の戦闘機零式艦上戦闘機を生んだ場所なのです。「ゼロ戦」といえば、今でも多くの人はその名前くらい知っていると思いますが、今日はその辺りの話を書こうと思います。


 世に知られる「ゼロ戦」とは、正式名を「零式艦上戦闘機」といいます。この「零」ですが、この戦闘機が日本海軍に正式採用されたのが昭和15年(1940)、日本皇紀2600年でしたのでその末尾の「0=零」をとったわけです。ちなみに日本の兵器の名称は、その皇紀の末尾から取られたものが多々あります。


 そのゼロ戦の設計主務者となったのが、三菱の若きエースであった堀越二郎でした。30代前半だったと思います。堀越は、既に最高の戦闘機と呼ばれた海軍の96艦戦を設計しており、その力量は三菱社内だけでなく広く海軍にも知られていました。


 海軍から出された要求性能書をみて、三菱以外の航空機メーカーはそのコンペを途中で辞退してしまい、次期海軍の主力戦闘機は堀越一手にかかることになります。要求性能書には、当時の航空機の水準をはるかに上回ることが列記され、堀越自身も「どう考えても、要求通りにつくるのは無理だと思った」といいます。昭和12年のことです。


 ゼロ戦の初陣は昭和15年9月。支那事変においてでした。13機のゼロ戦で敵機27機(ソ連製中国機)を全機撃墜という華々しいものでした。その後、昭和16年12月の大東亜戦争開戦まで、撃墜されたのは僅か2機、それもそのうちの1機は高射砲によるものという、圧倒的な強さを見せていたのです。


 中国空軍にはアメリカの退役軍人という建前で実は現役軍人である「フライングタイガース」という義勇軍がありました。その指揮官は、「日本がとてつもない戦闘機を開発して実戦に投入してきた」とアメリカ本国に警告を発しました。ところが、本国はその警告を無視します。「日本にそんなモノをつくる力はない」という強烈な思い込みと、その指揮官クレア・シェンノートの日ごろの大言壮語が原因でした。


 日米開戦後、アメリカはその警告が本物だったと気づくことになります。ゼロ戦は、当時のアメリカ戦闘機と最高速度が同等でありながら、ひらひらと攻撃をかわす身軽さ、もちろん日本海軍のパイロットの技量が卓越していたことにもよりますが、アメリカ軍機、イギリス軍機ともに全く歯が立たなかったのです。大戦初期の彼らには「ゼロを見たら逃げろ」という命令が出ていたそうです。


 ゼロ戦の優れていた点は、その航続距離と空戦性能にありました。とにかく機体を軽量化することに専念され、ボルトんぽ一つでさえ、徹底的な軽量化が図られていました。パイロットや燃料タンクを守る防弾装置は皆無でした。それには当時の日本の技術上のネックもありましたが、そもそも海軍の要求性能書に「乗員を守る」という発想がなかったのです。これはアメリカの戦闘機とは完全に異なる設計思想でした。


ゼロ戦を見て、その流れるような機体の美しさに女性らしさを感じるのは僕だけでしょうか。ゼロ戦は、大量生産には向かない戦闘機で、どちらかといえば職人の手作りのようなそんなイメージがあります。生産工数もかなりありました。


 
一方、アメリカ海軍のグラマン社製F6Fヘルキャットの武骨な姿はどうでしょう。これは、ゼロ戦に倍する2000馬力のエンジンを積み、防弾性能はゼロ戦とは比較にならないくらい優れたものでした。大量生産向きの機体であることは言うまでもありません。








 大戦末期にはアメリカ軍機は2000馬力の戦闘機が揃えられますが、日本海軍が2000馬力の戦闘機を実戦に投入するのは、昭和20年まで待たねばなりませんでした。紫電改という戦闘機を揃えた部隊の活躍は以前紹介しましたね。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/07/654.html


ゼロ戦は、改良に改良を重ね最後まで日本海軍の主力戦闘機でありつづけるのですが、活躍できたのは優秀な搭乗員も多く、性能も卓越していた大戦初期までで、中期以降になると苦戦の連続となります。しかし、それにかわる戦闘機を海軍は生みだす事はできなかったのです。そのため、ゼロ戦という機体を使い回したというのが実情です。




 日本の「モノづくりは一番」と自民党が言ってますね。かつて「経済一流」と言われたのも、それが一流たる原因だったと思いますが、「ゼロ戦」という技術の結晶の末路がどうであったかを思うと、そればかりを言い募ることはできまいと思います。「ガラパゴス化」の嚆矢であったともいえるかも知れません。「日本人」にだけ通用、受け入れられる機体であったということです。ディスカバリーチャンネルの「世界の名戦闘機トップ10」には、ドイツのメッサーシュミット、イギリスのスピットファイアはランクインしてましたが、ゼロ戦をはじめとする日本の陸海軍の戦闘機は1機もランクインしてなかったのも、そのあたりが原因かと想像してます。


 余談ですが、当時の日本の戦闘機は、現在のノーマルガソリンより低いオクタン価の燃料で飛んでました。その中で設計通りの性能を出すのは不可能だったということもあったと思います。戦後日本の各種航空機をアメリカ本国へ持ち帰り、品質の良い部品に交換し、オクタン価の高い燃料を入れて飛行させたところ、アメリカも驚くほどの性能を発揮した日本の戦闘機が多かったと言います。


 今日はこれまで。





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