人気の投稿

2010年7月22日木曜日

65年前の終戦記念日を思う その4

 今日は終戦にまつわる秘話を紹介します。


愛媛県松山市といえば、「坂の上の雲」の秋山兄弟、正岡子規が生れ、夏目漱石「坊っちゃん」の舞台となったことで知られていますが、戦争末期の昭和19年末に「343海軍航空隊」という部隊が創設され、日本爆撃に大挙飛来する米軍機に日本海軍航空部隊最後の大戦果を挙げたことは知られていません。その部隊を創設したのは源田実大佐で、真珠湾攻撃時の航空参謀であり、航空の専門家として海軍部内にあって大きな発言力を持った人間でした。源田大佐は、日本の上空における米空軍の跳梁跋扈を何としても阻止すべく、当時の新鋭機「紫電改」で戦闘機部隊をつくり、その搭乗員も南太平洋に広く散らばっていた、各航空隊のエースを彼の政治力によって松山に集めるということやってのけます。


この頃、日本海軍の「零戦」は性能の面でもはや米軍機に太刀打ちできず、しかも搭乗員の技量も低下する一方でした。当時の日本の戦闘機は陸海軍含め1000馬力のエンジンでしかなく、一方の米国は2000馬力のエンジンを積んだものでした。新鋭機「紫電改」は海軍戦闘機の中で唯一2000馬力のエンジンを積み、しかも空戦性能を飛躍的に高める「空戦フラップ」という新技術が織り込まれた、まさに起死回生の期待を担う戦闘機でした。


源田大佐は、優秀な搭乗員、優秀な戦闘機を集めただけではなく、戦闘方法もこれまでとガラリと変えて、名人技に頼ることなく、常に編隊という組織で戦うことを徹底させました。空中での組織戦を支える高性能の無線機も完璧に揃えさせました。信じられないことでしょうが、それまでの海軍の航空機に装備されている無線機は、非常に性能が悪かったため、いざ空中にあがると手信号による意思疎通しかできなかったのです。


源田大佐のこの目論みは、大成功を収めます。爆撃機B29には目もくれず、ただその護衛戦闘機だけに狙いを付ける作戦は、紫電改の高性能、搭乗員技量の卓越さ、編隊戦という新作戦で、昭和20年3月の初陣で米国戦闘機50機を超える撃墜を成し遂げます。


しかしながら、たび重なる戦闘により優秀な搭乗員も次々と戦死し、かつ機体の補充もおいつかず、部隊の戦闘力を維持できずに最後は終戦を迎えるのです。


ちなみに、現在の旅客機は高度約9000mを飛行しますが、B29は高度約1万mを飛行してました。日本の航空機は、その高さで自由に戦闘する事ができず、しかも、航空機を落とすための高射砲もその高さまで届きませんでした。唯一その高さまで射程距離のある高射砲は、僅かに2門あるだけでした。


さて終戦後。源田大佐は、海軍上層部から秘密命令を受けます。それが「皇統を護持せよ」というものです。つまり天皇家の血筋を護れということです。連合国が天皇家の将来についてどのようにするか予断をゆるさかなった時、その血を継ぐものを護り、かくまうことを命じられたのです。


そのいつ解除されるかもわからない秘密命令は、8月19日になって部隊員に告げられ、23名がその任務につきます。終戦直後の具体的行動は、どこに皇統をかくまうか、その場所を探すことでした。数名ずつがグループになり、各地を歩いて回ったのです。


幸運なことに、その秘密命令はその目的を果たさずに済む事になります。その命令の解除式は戦後36年目の昭和56年に行われました。中には、いつ命令の発動が来ても良いように、ずっとその準備を怠らなかった人間もいたそうです。源田大佐は、その後航空自衛隊の制服組トップである航空幕僚長を務めたあと参議院議員となります。


この秘話をどうみるか、現在の視点からみればある種の迷夢かも知れません。しかし、「歴史」というものはこうした無意味ともいえるものにかける人間の情熱の集積が、その流れを作っていくものなのかも知れません。僕はそう思っています。

0 件のコメント:

コメントを投稿