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2010年7月13日火曜日

65年前の終戦記念日を思う その1

 数年前にWOWOWでアメリカのテレビドラマ「バンド・オブ・ブラザーズ」という、第二次大戦の欧州戦線での米国部隊を主人公にした物語を放映してました。テレビドラマとはいえ、製作総指揮にスティーブン・スピルバーグ、トム・ハンクスが名を連ね、総製作費数百億という大作です。田村さん、ご存知ですよね?
 さて、今度はそのメンバーによる米国海兵隊を主人公とした「ザ・パシフィック」が同じくWOWOWで放映されます。今からとても楽しみです。


 さて4年程前、「硫黄島からの手紙」という映画が好評でしたね。今日は、その周辺の逸話を紹介します。


 1949年の元旦に、硫黄島で二人の日本兵が投降した。彼等は戦友達の玉砕も日本の敗戦も知らず、4年間昼間は地下壕に身を潜め、夜間に米軍倉庫から食料、衣服を盗み出し生きていたのだ。投降した時の2人は、長い地下壕生活で顔色は冴えなかったが、ふっくらと太っていたという。 

 その内の1人、山蔭光福元海軍二等兵曹は内地に帰還した後、警察予備隊の発足に際して志願するも、持病のヘルニアが原因で不合格となってしまう。恐らく失意の日々を送っていたであろうその人に、「硫黄島での4年間の思い出を書いてはどうか」と彼等の生還と、そのインタビュー記事を本国に送った米国人ジャーナリストが救いの手を差し伸べた。山蔭応えて曰く「四年間島で日記をつけていました。没収されるのをおそれて土に埋めて隠してきたのです。あれを掘り出して参考にすれば、きっと正確な記事が書けると思います。取りに行かせてもらえませんか。」 
NBC極東支局長であったその米国人ジャーナリストは、早速彼の硫黄島渡航を滞在1泊という条件付ながら実現する。1951年5月7日、彼を乗せた飛行機は硫黄島へ向けて飛び立った。山蔭は非常に嬉しそうだったと言う。 

 しかしながら、彼は日記を見つけられなかった。火山地帯のため、地形は大きく変動しており、かつての生活場所の変貌は想像以上だったのだ。 

 翌日の朝、飛行機の出発時刻を間近に控えた山蔭ら(エスコートの米軍人含む)は写真撮影のために硫黄島を象徴する摺鉢山へ向かう。山頂に着いた山蔭は感慨深げに海を見渡していた。出発時刻が迫り、彼は車に向かって歩き出した。 
だが、車まであと数歩というところに戻った彼は、突然踵を返して走り出し、あっという間に摺鉢山の断崖から太平洋めがけて飛び込んだのである。 

「太平洋へ死の跳躍」 

 彼の死を伝えた毎日新聞の見出しにはこう記された。それを間近に目撃したエスコート役の米軍人は次のように記している。 
「・・・山蔭君が飛び降りたのは摺鉢山旧噴火口から約90メートル離れた地点であった。山蔭君は突然両手をさしあげ『バンザイ』と叫びながら狭い崖の突出部から身を躍らせた・・・」 

 件のジャーナリストはこう言っている。
 
「戦友の死霊に招き寄せられるように太平洋めがけてとびこみ自殺を遂げた」 

 山蔭は、硫黄島へ渡る直前岩手の実家へ帰郷し、「硫黄島で咲かせるのだ」といて鳳仙花の種を鞄にぎっしり詰めていったという。1925年生まれの彼は26年間の人生を、その最も過酷で地獄のようだった硫黄島で自ら終らせた。地下壕生活から生還して僅か2年4ヶ月余の人生だった。 

 彼を知る誰もが、そして死の直前まで一緒にいた米軍人でさえも 
彼がよもやそんな事を企んでいたとは思いもしなかったという。 
快活で喧嘩も強く、また几帳面な性格でもあったのだろう、彼は海兵団にいた頃から日記は欠かさずつけていて、1944年9月に硫黄島に立つ前にそれを実家に送ってもいる。 

 彼、山蔭光福を主人公とした小説「硫黄島」(著者菊村到)は1957年上期の芥川章受賞作である。 

 本日の出所「硫黄島いまだ玉砕せず/上坂冬子/文芸春秋」 
(この本は同島の遺骨収集に命をかけた元海軍大佐和智恒蔵が主人公)


 先日テレビで知りましたが、1944年7月のサイパン島の日本軍組織的戦闘が終了してからもゲリラ戦を展開し続け、日本軍の救援を信じ続けて戦い続けた陸軍部隊を主人公とした日本映画が製作されているようですね。唐沢寿明がその部隊長を演じるそうです。この部隊が日本の降伏を知り、正式に米軍に投降したのが昭和20年12月の事でした。

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