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2010年7月30日金曜日

心の食物

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりにも遠し
せめては新しき背広をきて
きままる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みずいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめの
うら若草のもえいづる心まかせに。


萩原朔太郎がこれを詠んだ大正時代には、一般庶民の海外渡航などは思いもよらぬことでした。今とは大違いですね。今は世界が狭くなりました。ただ、それがどれだけ僕らの人生を豊かにしたのかについては、疑問が残ります。「憧憬」は手に入れた刹那に「憧憬」ではなくなってしまうからです。心の中でずっと温めて続けている状態の方が幸せというような、ある種のつつしみみたいなものを一切、なくしてしまっていますからね、現在は。


若い時には旅をしろ、だとかよく言いますね。見聞を広めろとか・・・。僕はその言葉に否定的です。何の知識も、あこがれもなく、例えば海外へ旅へ出たって、心の中に残る事はそう多くはないと思うからです。逆に、常に自らを省みて沈思して心の中に「なにものか」を持っている人ならば、普段目にする何気ない日常の中に、海外で見る景色の素晴らしさ以上のものをみつける事ができるだろうと思うからです。




「われわれの人生に対する読書の意義は、一口で行ったら結局、『心の食物』という言葉が最もよく当たると思うのです」


「『心の食物』は、必ずしも読書に限られるわけではありません。いやしくもそれが、わが心を養い太らせてくれるものであれば、人生の色々な経験は、すべてこれ心の食物と言ってよいわけです。したがって、その意味からは、人生における深刻な経験は、たしかに読書以上に優れた心の養分と言えましょう。だが同時にここで注意を要することは、われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいとも言えましょう」


「ちょうど劇薬は、これをうまく生かせば良薬となりますが、もしこれを生かす道を知らなねば、かえって人々を損なうようなものです。同様に人生の深刻切実な経験といえども、もしこれを読書によって、教えの光に照らして見ない限り、いかに貴重な人生経験といえども、ひとりその意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果ともなりましょう」


これは西田幾太郎の弟子であった森信三が「修身」の講義で述べた言葉です。


そういえば、カントの言葉にも「知識は経験とともに始まるが、思推思考がなければ盲目となる」がありますし、
論語の「学びて思わざれば即ちくらし 思いて学ばざれば即ち殆し」がありますが、ほぼ同様なことを言っていますね。


僕の読書の目的は、「この世の絶対の真実を知りたいがため」といえるかも知れません。そんなものはありはしないのかも知れませんが、それを究める途上に読書があるのかなと・・・。すなわち僕にとっては「読書」は修行の一つです。



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