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2010年11月2日火曜日

サムライとスフィンクス 上海での光景

スフィンクスの前で集合写真におさまるサムライたち。この写真ご存知でしょうか。


これは元治元年の旧暦2月28日に撮られた写真です。西暦でいうと1864年、維新の4年前のことです。


この旅の一行は全部で34名、この写真に収められているのはそのうち27名で、その人物の名前もすべてわかっています。
第二回の幕府遣欧使節団の一行で、その目的は開港した横浜を再び閉じることの交渉とされていました。また、攘夷を名乗る浪士にフランス陸軍士官が殺害された事件の謝罪も含んでいました。この交渉ははなから成功するはずのないことはその一行も、幕府もわかっていました。朝廷への単なるポーズにしかすぎなかったのです。


文久3年12月27日(1864)に横浜をフランス軍艦に乗り出発し、途中2月に立ち寄ったエジプトでこの写真を撮ったわけです。パリにはエジプト出発後6日目の3月10日に着きました。そして文久4年5月26日にパリを出発し帰国の途に着くのです。日本に帰りついたのは7月18日のことでした。


この一行の中には、国際法を学んだ法律家、科学者、医者、両手で算盤を使いこなすことのできる者、兵学の大家などさまざまな人間がおり、中にはフランス語を完全に解した者が1名、その他に7名の男が英語を読むばかりでなく、かなりの実力で英語を話すことができました。17歳から44歳まで、大名からその下僕まで身分もさまざまでした。


 一行の中の若いサムライたちは、正確に日本の後進性と西欧の先進性を認識し、来るべき新しい社会はどうあるべきなのか、そして日本人としてどうそれに向き合うべきなのか、漠然としたものではありましたがその答えらしきものを持っていたように思います。


 そんな一行が過ごした、ある夜の話が僕は大変好きなのでご紹介します。


 一行は上海に寄港し、その民衆の貧しさの中で屹然と断つイギリスのホテルで寄港最初の夜を迎えました。入口一つで天国と地獄のような差があり、おそらくその落差に戸惑ったと思います。上海の民衆は、江戸の下層の人々よりもはるかにみすぼらしい格好で、それが町をおおっているかのような印象でした。


 身分の低い若い若い彼らは、ホテル1階の大食堂で食事をとりました。大きなテーブルでイギリス人に交じりながらナイフとフォークを使ったフルコースメニューでした。英語を話せる彼らがイギリス人に話しかけると、イギリス人はみな一瞬驚いた顔を見せたあと、彼らと会話をするようになります。ちょんまげを頭に載せた日本のサムライが英語で話しかけてきたことの驚きでしょう。そのうち一人のイギリス人がピアノに近づき、ピアノを弾き始めました。サムライたちは「おやっ」という表情をみせ、すぐにそれと知り驚きました。そのイギリス人は日本帰りだったのでしょう、彼が引いたのは江戸で大流行していた「チョンキナ」という曲だったからです。


「チョンキナ チョンキナ
チョン チョン キナ キナ
チョンがなのさで チョチョンがホイ」


たったこれだけの歌詞の当時の流行歌でした。そのメロディーを奏でるピアノの前に彼らは集り、自然と大合唱になりました。上海という異国の地で、それを弾くのがイギリス人、そこで合掌するのが日本人という、奇妙な絵です。


そのうち、16歳の少年益田進が


「よし、俺がアコーディオンを弾いてやる」と、側にあったアコーディオンを手にとると、そのピアノに合わせ、軽快にアコーディオンを奏で始めました。今度は驚いたのが回りにいたイギリス人です。日本のサムライが西洋の楽器を奏でるなど思いもよらなかったのでしょう。あちこちで口笛が鳴り響き、ヤンヤヤンヤの大合唱になりました。


 益田少年は米国領事館勤め時代にハリスからそれを教わり、ハリス帰国後もアコーディオンを買い求め自宅で練習を続けていたのです。彼は後に益田孝と改名し、三井物産を創始します。


 もう一人の少年矢野次郎兵衛、当時15歳は矢野次郎と改名し、明治新政府に仕え「東京府商法講習所」を設立します。後の一橋大学です。彼も益田少年同様アメリカ公使館に勤めていました。




 本日紹介したかったのは、この奇妙な光景です。なぜだかわかりませんが、僕にはこの光景がまるで見ていたかのようにくっきりとイメージできるのです。そして、微笑ましくも、もの哀しくもなってしまうのです。ここで取り上げた益田、矢野の2人の少年たちも、終生あの上海の一夜を忘れなかったのではないでしょうか。




 今日はこれまで


追伸)
本日の出典は「維新前夜―スフィンクスと34人のサムライ」鈴木明 小学館ライブラリーです。

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