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2010年10月2日土曜日

組織能力とは その9

 元禄時代から説き起こし、ようやく天保という幕府末期の時代にまで辿りつきました。


本題は「組織能力とは」ということです。番外編でその結論めいたものを書いてしまいましたが、もう少しお付き合いください。


 「天保の改革」は教科書で習ったと思います。19世紀半ばのことです。12代将軍家慶の時代で、水野忠邦が老中首座として改革を行ったのは、その内の僅か7年程でした。彼の政策に反対する人々が、将軍に彼を罷免するように働きかけたからです。家慶は「そうせい候」と呼ばれ、自らの定見を持たずに言いなりになる人だったといいます。


 水野忠邦の改革は、その大きな方向性はほぼ松平定信と同様でした。徹底的な検約を奨励し、歌舞伎の上演を取り締まるなど、奢侈に流れた世の中の綱紀粛正を目論んだのです。有名な遠山の金さんこと遠山景元は水野の部下で、町奉行を勤めています。遠山の金さんは後に水野と対立し、庶民の側に立ったということで人気がでました。これがあの時代劇の背景です。


 水野は「株仲間の解散」というものを行います。株仲間とは、物価統制をねらって大岡越前が作り上げた同業組合がその元ですが、田沼時代には、これに流通税をかけたことは前述しました。続く松平定信は、これを「株」化して特権を与えたのです。当然、価格統制が行われます。水野は、これを解散させて自由な商品市場をつくり、物価を下げようとしたのです。また、物価引き下げ専門職をつくり、引き下げの督励監視をさせたり、一律二割以上という物価引き下げ幅を決めて実行させようとしたりします。当然のことながら、商人らの強い抵抗を受け、その実を挙げる事は出来ませんでした。そもそも、自由市場に人々が馴れていなかったのが原因とも言われています。


 また、水野忠成がもとに戻した松平の「帰農令」を再び実行(人返し令)し、身分秩序の回復を図ろうともします。他には、芝居小屋の隔離(浅草へ移転させた)、寄席や歌舞伎の制限など、庶民の娯楽を取り締まりました。彼の政策は、彼が抜擢した部下からも反対の声が出て、それが下で罷免されてしまいます。改革策の効果はひとつも出ませんでした。


 この時期、幕府財政は大幅な出超で常に赤字であり、諸物価高は幕臣の生活を困窮させるという事態で、求められることは大きく発展した貨幣経済のかじ取りをどう行うかであったわけですが、松平定信もこの水野忠邦もそれを見極めることができず、経済に対して理念を持ってきたような改革に終始してしまいます。うまくいくわけがありません。


 さらに言えば、この頃は幕府の権威も下がり続けており、吉宗の時代ほど幕府の法令は受け入れられなかったということがあります。貨幣経済の中心をなすのは大商人であり、その大商人からお金を借りている幕府、諸藩は商人らの言い分を聞かねばならなかったわけです。時代は既に大きく変わっていました。


 家慶は1853年に死去しますが、ペリー来航による幕末の混乱が始まるのはこの年だったと初回に書きました。1837年には大阪で大塩平八郎の乱が起こります。彼は幕府の役人、大阪町奉行所の人間でした。時代は急激に動いているのに、復古反動の改革策しか出せなかったわけです。幕府の滅亡はここから始まっていきます。


 続く13代将軍家定は5年間、14代家茂は8年間将軍職にあり、最後の15代将軍慶喜に続くわけですが、そうした時代の流れに抗う術を持てませんでした。正確にいうと、抗う術は持っていたがそれを発揮させることができなかったというべきでしょう。幕府滅亡の危機にあって、一際輝く二人の人物がいたからです。


 小栗上野介と勝海舟です。


次回は、この二人についてです。今日はこれまで。

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