人気の投稿

2010年9月30日木曜日

組織能力とは その7

 今回は田沼意次についてです。


 綱吉時代から続く「側用人」という、ある種の能力主義による抜擢は、今回の田沼意次によって終りを告げます。田沼以降の「寛政の改革」「天保の改革」ともに、その実施者は譜代門閥の職位である老中が行うことになります。それらは残念ながら、それまでの改革者が行ったほどの効果を発揮することは出来ませんでした。


 さて、その田沼意次です。田沼は吉宗が将軍の時、その実子家重(9代将軍)の小姓を勤めていた事は前述しました。彼は身分の高い家の生まれではありません。彼が父親から引き継いだ家は僅か600石ですが、出世に出世を重ね、後には1万石の大名となっていきます。彼を重用したのは9代家重でした。家重は病の為、将軍職をその子家治に譲るのですが、家治にも田沼を重用するようにと申し告げるほど、田沼を信頼し切っていました。田沼はこの家治の時代に、大出世を遂げて遂には老中にまで登りつめるのです。18世紀後半の事。吉宗死後四半世紀後の事です。即ち、田沼は将軍側近の側用人としてだけでなく、伝統的な制度である老中職としても幕府の実権を握っていくことになるのです。


 田沼は、吉宗が次世代の完成を委ねた諸政策の課題を、その行政手腕で解決し、全国規模での経済発展を推し進めていくことになるのです。田沼が活躍した時代は、大体1760年から老中罷免の1786年までの約25年間です。


 綱吉時代の荻原重秀が、政敵新井白石により不当に貶められたように、田沼の政治もその政敵松平定信(老中)による誹謗中傷により同じ事態となっています。後に「寛政の改革」を為した人物として知られる松平定信は、その父が吉宗の次男であり、自身が将軍になることができるほどよい血筋でした。しかも、9代家重は幼少の頃の病気により、言語不明瞭であり、幕府内には次男の宗武が将軍に推す一派がありました。その宗武が松平定信の実父です。しかし、結果は9代、10代と吉宗の長男直系が将軍職を継いだため、定信自身の将軍職の芽は完全になくなってしまったのです。そのため、定信は、家重、家治に対してふくむところがあり、その将軍に直接向けられない怒りを信頼厚い田沼に向けたのです。田沼政治は賄賂政治だという資料は、ほとんどが松平一派によってつくられたもので、その信憑性には大いに疑問が残っています。


 
 さて田沼意次は具体的にどういった政策を行ったのかご紹介します。


 まず第一に、彼は幕府財政に「予算制度」というものを持ちこみました。それまでは、必要な分だけ支出されていたのですが、それを予め決めた予算以外には一切支出を認めないという制度をつくったのです。それも部門ごとにです。そこで彼は民生部門は毎年ゼロシーリングで予算を据え置く替わりに、将軍の身の回りとかの大奥の予算を大幅に削減し、民生重視を打ち出しました。


 次いで、彼はそれまでの税制を抜本的に変えるということをやってのけます。簡単に言えば年貢の徴収にたよる直接税方式に、商品流通による流通税つまり「間接税」を加えるのです。田沼は吉宗が年貢率のアップに苦労したことを知っていました。そのため、率を上げなくとも幕府に収入が入って来る仕組みを、流通税というものを考え出して実現するのです。流通税といっても、商人個人単位で課税するのではなく、扱い商品ごとに流通グループを作らせて、そのグループに課税していく方法をとったのです。商人らの流通グル―プは税を支払う代わりにその見返りを要求します。それが「株仲間」の誕生で、流通上の独占権のお墨付きをもらったのです。


 第三は、通貨の一本化です。江戸は金、大阪は銀が主体であった通貨を一本化したのです。それまでは金一両が五十匁、もしくは六十匁で金一両としていたのですが、実際は金銀相場の変動により思うようにいかず、この変動相場は東西の経済の流通を妨げていたのです。この情況に、田沼は「明和五匁銀」という通貨をつくり、これを12枚で金一両と交換できるようにしたのです。相場に関わらずです。こうして金と銀は一本化し、東西をわける流通通貨の問題が解消されたのです。しかし、田沼失脚後、これは潰されてしまい田沼時代の通貨は全て使えなくなりました。吉宗から田沼時代へつづいて拡大、発展してきた経済は、再び逆コースへと通貨の面で後戻りしてしまうことになります。


 第四は、蝦夷地の開拓です。北海道の耕作可能地を調査し、そこを開発することを目論みました。計画では蝦夷地開発による収入は約600万石、当時の天領が450万石でしたから、その大きさがわかります。彼は、アイヌ人たちに種子や農機具などを与えて開拓させ、足りない人間は内地から移住させようとも考えます。それまでの蝦夷地を管轄する松前藩の政策は、アイヌには農耕を禁じていました。農耕を通じて豊かになると、松前藩が貴重な輸出品としていた鮭や動物の毛皮を獲ってこなくなるとしていたからです。田沼の政策はそれとは180度違う、気宇壮大な開発計画でした。

第五は印旛沼の開発です。印旛沼は千葉県にあります。この事業は吉宗の新田開発を受け継いだものでした。これは新田開発と同時に、利根川から印旛沼を通って、そこから運がで江戸へ入るような水上の流通路を造ろうとしたものです。この事業は全体の3分の2程終った時点で、前代未聞の大洪水が関東地方を襲い、それまでの進捗が台無しとなってしまい、この事業は中止されてしまいます。

以上の5つが田沼意次の行った政策です。この頃は、吉宗の取った特産品開発がかなり軌道に乗っており、都市部だけでなく農村部やそれまで不毛の地とされてきた東北地方にまで経済的な豊かさが広がった時代でした。現在でも最高級品とされて中国本土で珍重されているフカヒレや干しアワビは三陸産のもので、これはこの頃から長崎を通じて中国へ輸出されていました。



この地方経済まで巻き込んだ豊かさは、多くの文化を生み出しています。例えば「浮世絵」は元禄時代に菱川師宣が創始したものですが、田沼時代に生きた鈴木春信が、多色刷りの技術を創出しました。これがゴッホにまで影響を与えた「浮世絵」となります。

有名な「解体新書」が出たのもこの時代ですし、平賀源内が活躍したのもこの時代です。また、大田南畝(蜀山人)という戯作文学の旗手が江戸でもてはやされたのもこの時代でした。


田沼意次の失脚は、彼の後を継ぐとされていた息子意知が、江戸城で殺害された2年後となります。一説には、その黒幕は松平定信であったとも言われています。1784年の事でした。田沼は、彼を庇護してきた10代将軍が死亡するとともに失脚し、彼の多くの改革は終りを告げるのです。そして、元禄が終わって、復古反動の嵐が吹いたのと同じように、田沼の死後はまたも復古反動に針が大きく振れてしまうのです。

次回は、田沼の後に出てきた松平定信の「寛政の改革」、そして「天保の改革」の水野忠邦に触れていきます。そして、水野の改革が幕府最後の改革となり、後は対外問題に国内が翻弄される中、有効な手立てを打ち出す事が出来ずに、その役割を終えていくことになります。そろそろ、江戸時代の様々な改革を俯瞰するのも終りに近づいて来ます。

今日はこれまで。

0 件のコメント:

コメントを投稿