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2010年9月23日木曜日

組織能力とは その2

 昨夜は十五夜でした。雲の切れ間から垣間見えるそれは、まさしく明月でした。
 


 さて、昨日は「生類憐みの令」には広義と狭義の2種類あり、広義のそれは綱吉に限らず幕府がだしており、それを生んだ法理、背景には「戦国遺風(下剋上)の一掃」「平和で安定した社会の実現」があったと書きました。


 今日はその続きからです。


 
 当時、最も重要な政治課題だったのが「如何にして世の中を平和的に治めるか」ということで、能力の有無による下剋上というそれまでの風潮は、それを実現するために非常に厄介なしろものでした。能力に拠る抜擢、これは将軍後継問題選びにも常に出てきた問題でしたが、これは結局は下剋上につながります。3代将軍家光は2代将軍秀忠の長男でしたが、周囲は長男家光より次男の方が利発で明晰だったため、次男が将軍となるだろうと推測していました。秀忠自身も次男であったことにもよります。それに反対したのが家光の乳母であった有名な春日局で、彼女は存命であった家康に直訴します。事情を聞いた家康は、後継者選びの騒動を避けようと、江戸城へ出府し、将軍秀忠及び幕臣が居並ぶ席上、自らがすわる一番の上座に幼い家光を呼び寄せ、一緒についてきた次男を「シッシッ」と追い払い、家光を後継者とするよう無言の圧力をかけたと云われています。家康は「次男以下は最初から家来として扱え」と手紙に遺しています。家の乱れ、世の中の乱れを防ぐためには、兄弟間にも身分秩序を確立しなければならないという家康の思想で、それを家光以後の幕府は受け継いで行くわけです。こうして武家だけではなく庶民にも「長男相続」のルールが広がっていくのです。家康という創業者が存命のころに出された最初の「武家諸法度(1615年)」には、「政治的能力のある者を後継者とすべし」とありました。これは能力といってもその判定は困難であるため、結局は力によってしまうことは明白です。家康死後、家光が出した「武家諸法度(1635年)」からは、その条文は削除されています。身分秩序、制度というのは、そもそもこういう背景から出されたものです。


 また、幕府の直参の家来である旗本、御家人もその区別が明確となり、士農工商のみならず「士」の中での身分秩序も明確に確立されていくようになります。こうして、身分秩序は武家だけでなく、広く全階層に浸透して行くわけです。今では影の薄い4代将軍家綱の時代には「殉死」が禁止されました。武士は主人という「個人」に仕えるのではなく、家という「法人」に仕えることを義務付けられるようになるのです。


 さらに、この頃には生活に困って子どもを山の中に捨てたり、気に入らないというだけで捨てたりするほか、人間や牛馬が病気になると同じく山に捨てて自然に斃死するのを待つという風習も残っていました。当然、その遺体、死がいは野ざらしです。幕府はその風習を取り締まる様にもしました。「生類」、つまり人間を含めた生けるもの全てを大事にしろということを法令で徹底させたのです。その裏には「最早戦国でない平和な時代なのだ」ということを広く知らしめる意図がありました。日本人が死後墓にはいるようになるのは、元禄のころからです。


 同じく4代将軍時代に「宗門改め制度」ができました。各村々の全員を必ず寺の檀家にして戸籍の役割を担わせたものです。キリシタン禁制の為でもありました。ところが、寺の中にはお金を持ってこない人間を登録しないというところもあり、幕府はそれに対して「捨て子や親の知れない子どもを戸籍に載せないのは主旨に反するから、そういう目にあったならば幕府に訴え出るように」という法令まで出しているのです。まさにこの頃、有名な水戸黄門=徳川光圀は、領内の寺社が金儲けばかりしていることを批判し、3000もの怪しげな宗教やその施設を解散させ、多くの坊主を辞めさせてもいます。


 綱吉の出す「生類憐みの令」で分類することのできる法令の一番最初は、「病気になった人や牛や馬を棄ててはいけない」というもので、これを幕府に訴えた者には、万一その罪を犯した同類であっても褒美を与えて許すというものでした。これも、それまであった悪習を断ち切るために出されたものだったのです。


話は違いますが、古典落語にもあるように親孝行の息子や娘を幕府が表彰してお金まで与えることがありました。親孝行の奨励ですね。


 こう考えると、「生類憐みの令」なるものもかなり印象が違ってくると思います。それでくくられる法令は、その多くがそれまであった悪習の禁止・否定なのです。




 今日はこれまで。明日は幕府中興を成し遂げたと言われる徳川吉宗の時代に行きます。



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