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2010年9月25日土曜日

組織能力とは その4

 徳川吉宗といえば「暴れん坊将軍」です。教科書では「享保の改革」で出てきます。吉宗は実際の姿も6尺近い大男だったようで、今でいえば1.8mの身長ということになります。この時代ならばかなりの大男でしょう。ちなみに、かつての大日本帝国時代、徴兵検査の甲種合格の身長基準が150㎝でした。かつての日本人は小さかったのですね・・・。


 享保年間は1716年から1736年までで、吉宗が将軍に就任したのは享保元年(1716年)、隠居して大御所となるのが1745年ですので、彼はほぼ30年間に渡り政治を取り仕切ったことになります。やはり、改革の狼煙を上げそれを実現して効果を顕現させるためには、長い期間が必要なのですね。


 時代劇で有名な大岡越前は彼の生涯の部下でした。この大岡は、吉宗といつも政策上の論争を繰り広げていたと云われています。大岡は吉宗の葬儀を済ませたあと、後を追うようにして亡くなっています。


 吉宗の1代前の7代将軍までは、すべて2代将軍秀忠の子孫が将軍職を継いでいました。しかし、7代将軍家継が8歳で死亡したため秀忠直系の子孫が絶えてしまい、家康まで遡ってその子孫を将軍後継者としなければならない事態となります。そこで御三家と呼ばれた尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家(これらは藩祖が家康の実子)の筆頭、尾張徳川家の当主が継ぐはずでしたが、7代将軍の亡くなる前に当主吉通、その実子五郎太までもが相次いで死亡してしまうのです。これは吉宗一派による暗殺という噂もあります。そうして、いろいろごたごたがあった中、結果的に紀州徳川家から当主吉宗が8代将軍として就任することになります。吉宗は領内においても名君と呼ばれるほどの善政を布いていたといいます。8代将軍就任を巡る権力闘争は、吉宗が将軍に就任した後、吉宗にある種の枠をはめてしまうことになります。


 吉宗は将軍就任に際し、紀州から200名の家臣団を引きつれてきます。将軍になってもそれまで同様の政治を行うためには、使い慣れた優秀な官僚が必要だったからです。さて、綱吉の頃から40年近く続けれられている「側用人」政治は、身分の高い譜代の門閥層から強い反発を受けていました。その体制をとる限りは、譜代の門閥層は政治の実権を握ることができないからです。吉宗は、将軍就任にあたって、その譜代の門閥層を味方につけました。そのため、吉宗は、それら門閥層をあからさまに無碍にすることができず、「側用人」として自らの家臣をその配置につけることを遠慮し、そのポストを廃止します。変わって、吉宗が創設したポストが「側用取次」または「御用取次」という役職で、実質的にそれまでの「側用人」と同じ役割を担わせるのです。しかも、老中職についている門閥層の顔をつぶさない形でです。ここが、吉宗のやり手のところですね。


 将軍就任直後の吉宗は、自分を押してくれた門閥層に遠慮してあまり身のある事は行いませんでした。最初に出したのが「検約令」で、自らそれを実行しました。1日3食が常態化していたのを1日2食、一汁一菜を実行し、着物は木綿しか着ず、どんなに寒くても着物の下に襦袢を着けることもなかったといいます。彼は、元禄時代に流行した過剰消費生活を、徹底的に取り締まるのです。


 後に江戸幕府の三大改革の一つとなる「寛政の改革」「天保の改革」でも共に徹底的な「検約」が奨励されることになりますが、その嚆矢は吉宗のこれとなります。


 当時、吉宗治政を揶揄して庶民の間で次のようなことが言われたといいます。


「極楽では、釈尊が『死人が持って来た六道銭はこれまで鬼たちにくれてやっていたが、これからは集めておいて極楽の修復料の足しにするように。また、棄てておいた衣類は集めておいて雑巾にするように』等々の御触れを出し、地獄では閻魔大王が『今までは地獄の鬼たちは虎の皮のふんどしをしていたが、贅沢であるので、これからは木綿の布に虎の皮のようなプリントをして使うように。また、持っている鉄棒もやめて、樫の棒を黒く塗って使うように』等々の御触れを出した」


 いつの世にも庶民に不人気な政策はあるものですが、断乎としてそれをやり抜いたのがこの頃の施政者で、それをやれないのが今の施政者ということになります。「当時は世論がない」からと言うのは言い訳ですね。この頃は「一揆」という直接行動がありましたから。事実、吉宗治政下ではある政策が原因で一揆が多発するようになるのです。


 
今日はこれまで。明日は吉宗の行った具体的な改革の中身を紹介します。


一体いつになったら、タイトルで示した本題に行けるのか心配になってきました。
 




 

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