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2010年9月14日火曜日

こんな日本でよかったね

 冒頭の言葉は、中国政府に贈ります。


恫喝を繰り返せば、この国は直に屈します。船長もすぐに釈放します。罰金もとりません。二度とこういうことが起こらないよう、話し合いしましょう。


 結末が見えてきて、もう、考えるのがあほらしいですな。そもそも、この国のマスコミは、「領海侵犯事件」と言わずなぜ「漁船衝突事件」と言葉をすりかえるのか。今回のようなケースの場合、領海侵犯船が領海国の船舶に体当たりしてきたというケースですが、普通の国ならば即刻その漁船を撃沈するでしょうね。


 
 


「こうして財政にも余裕が出てきましたが、庶民は苦しい生活を強いられていたのです」


これは、「まんがでわかる偉人伝 日本を動かした200人」の中の徳川吉宗を紹介した末尾のコマに書かれている文章です。女房が娘に買い与えたまんがなのですが、この文章は「?」です。今日はこのことを紹介します。


 「時代劇」で決まって悪役となる「代官」。どうもその言葉の前に「悪」とつけないと治まりの悪いような言葉になってしまっていますが、司馬遼太郎によると幕府が天領に派遣した代官というのは、その多くは人間的な質がよくで領民に対しても善政を布いたらしいですね。




 江戸時代の農民は、年貢の取り立てに追われて困窮し、むしろ旗を押し立てて一揆を頻発していたというようなイメージがあります。多くの人はそれをそのまま受け取ったままとなっていると思いますが、それは本当でしょうか。江戸時代の中期になると、年貢の率は四公六民、若しくは三公七民となっていました。そして、これはあくまでも「米」に関しての比率なので、「米」以外の農作物に関しては市場で自由に取引されていました。


 学校の歴史で「元禄文化」という言葉を習ったと思います。元禄文化は、それを担った主役が支配層ではなく、被支配層であったものです。たぶん、そう習うはずです。先ほどの言葉を借りれば「庶民文化」でした。江戸の中期です。その日暮らしの庶民に「文化」を生みだす余裕があるはずがありません。少なくとも江戸近郊の農民はかなりの生産余剰を持っていたことが簡単に推測できます。そしてその余剰分が江戸に住む町民層に流れたのです。


 同じく学校の教科書で「賄賂をもらう悪い奴」と教えられる田沼意次。彼は積極的に「新田開発」を奨励し、生産力を上げることに貢献した人物です。今なお地名に残る「新田」というのは、大体この頃の新田開発によるものです。


 「お伊勢参り」という言葉がありますね。江戸時代からある言葉ですが、「参」ったのは誰でしょう?先の言葉でいえば「庶民」です。苦しい暮らしを強いられていた庶民に、そんな娯楽が許されるでしょうか。


 江戸末期、日本に来た欧米人の多くが当時の日本の識字率の高さに驚いています。困窮庶民に「教育」の余裕があったのでしょうか。


 学校で教えられた江戸時代がいかに虚構か、これだけでもお分かりでしょう。まったく刷り込みというのは恐ろしい。最近では、江戸時代の色々が側面がかなり見直されてきて(本がたくさんでている)いますが、学校教育やらその周辺教材では未だに唯物史観全盛・・・。それをまき散らす彼らにとってみれば、封建社会である江戸時代が、そんな時代であったならば困るわけですね・・・。




 今日はこれまで。
 
 




 

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