人気の投稿

2010年9月29日水曜日

組織能力とは その6

 今から、何年前くらいになりますか、「価格破壊」という言葉がブームになりました。物の値段が下がるというのは、消費者にとっては嬉しい事ですが、当時それをなすための障害、元凶と言われたのが日本の商慣習、流通システムでした。


 本日ご紹介する大岡越前は、この流通システムを作ることによって諸物価の統制を図り、成功させるのです。



 前回までの復習です。


将軍吉宗は、米価安・諸物価高という事態に米価を上げようと取り組みました。一方の大岡越前は、米価安のままで諸物価高を是正しようとするわけです。大岡越前は、当時町奉行という役職でした。彼は上級旗本の出身でしたので、身分の低い人間ではありませんでしたが、吉宗の側近はほとんどが紀州藩の人間で占められていた中にあって、幕臣ながらのその地位は異例のことで、吉宗がかなり彼をかっていったことがわかります。


 大岡は、次のように考えます。


ある物の値段が上がると、多くの人間がそれに飛びついて更に値段を急騰させる。つまり、非常に多くの不特定な人間が流通市場に参加するので、物価が不安定になる。それならば、同業者仲間を作らせて、流通過程を整理すればいいと。


流通には問屋・仲買・小売の三段階があるから、同一商品に対してそれぞれ三つの段階の仲間を作らせ、相互監視させる。誰かの買い置きのために値段が値段が上がったら、仲間で注意して買い置きをやめさせる。適正利潤よりも多くのせて商売している人間は仲間がそれをみつけて是正させる。


ある物の売れ行きが好調になると、互いに競ってそれを仕入れるようになるが、生産者からすると、一番高く買ってくれる所へそれを売るから、商品の値段があがる。これを防ぐためには、ある商品はここでしか仕入れないという仕入れ先の制限をする。そうすれば、生産者は問屋仲間にしか売れないので、物価は下がるはず。


 そうして、これらの考えを実行すべく監視機構をつくり、全国のどこからどういう商品が、どれだけの量で大阪に入ったか、並びに出ていったかということを幕府に報告させ、最大の消費市場である江戸に入って来る商品も、浦賀に関所をつくり船の積み荷を報告させる仕組みをつくったのです。


 また、大岡はその流通システム構築と同時に、貨幣改鋳を行います。江戸は金、大阪は銀が主要な流通通貨だとは書きました。彼は、江戸の物価が高いのは、商品の供給量が需要量よりも少ないからであり、その原因は金銀相場だと考えたわけです。つまり大阪へ多く流れ、江戸へは少ない商品量を金銀相場を変えることによって増やそうとするのです。彼のこのアイデアは、「職を賭してやる」という強い決意の下に実行されますが、大阪商人やその後ろにつく諸藩の抵抗もすさまじく、吉宗も首を縦には振らないなど一筋縄では行きませんでしたが、吉宗が自身の米価政策を中止した享保20年になって、ようやく吉宗からの許可も出て、その翌年から貨幣改鋳を行います。


 元禄の荻原重秀時代の貨幣改鋳が、後に続いた新井白石によって元に戻された事は前述しました。大岡は、それ再びやってのけるのです。これにより、銀の品位がおとされ、その分だけ金が強くなり、金一両は銀六十匁となりました。金を切り上げ、銀を切り下げたのです。


 大岡の二つの策、「流通システムの構築・合理化」と「通貨政策」によって、諸物価高という問題も解決するのです。幕府財政が黒字転換になって5年後ほどでした。


 


 1603年の幕府成立、1616年創業者家康死亡から数えても、この頃は既に100年以上経過し、創業者のいた時代状況から大きく状況が異なった頃に出て来たのが5代綱吉の諸改革でした。重農社会から重商社会へと変貌したこの国のかじ取りを行ったのが、能力で抜擢された柳沢吉安や荻原重秀で彼らの手腕を存分に発揮させたのが綱吉でした。


 続く、6代、7代将軍の時には復古反動の嵐といっていいでしょう。経済音痴の新井白石が再び重農へと路線を変更させ、財政破綻、デフレの嵐が襲いました。


 吉宗や大岡の政策は、それを再び重商路線へ舵を切ったといえます。吉宗は幕府中興の祖と言われますが、彼の打った様々な政策を考えるとまさしくその通りで、もし吉宗が将軍にならなかったら幕府はもっと早くにその統治能力を失っていたかも知れません。


 最後に吉宗の行った他の施策についてご紹介します。


ひとつは、人治主義から法治主義へと徹底させたことで、人によりばらばらだった量刑の基準などをすべて判例毎にこまかく決定したことが挙げられます。「公事方御定書」というものを教科書で習ったはずですが、それがそうです。


もう一つは、度々ここで触れていますが全国に特産品を産出させたことです。それまでの米・麦以外の作物を禁じていたことを転換し、その土地に最も適したものを作付するよう改めたのです。これにより、和歌山の梅、愛媛の蜜柑、千葉県の野田や銚子の醤油など、各地に様々な特産品が生れました。特に醤油はそれまでは全て大阪から来ていたものが、江戸近辺で自給できるようになっています。吉宗は日本各地における適地適産を実現させるため、全国規模で詳細な資源調査を行っています。それは動物・植物・鉱物などありとあらゆるジャンルに渡る日本資源の総点検でした。


この結果、それまで最大の輸入品であった絹は、栽培に最も適した東北地方で作ることにより、完全に自給できるようになり、それが大東亜戦争直前までの日本経済の主要な外貨獲得手段となっていったことは前述しました。吉宗は、それまでの産業構造を大きく変えたのです。


 
 吉宗は、元禄以後ののデフレ経済と、幕府財政の赤字を見事に一掃しただけでなく、より発展させた形を9代将軍家重に遺していったわけです。吉宗以降、将軍として改革を成し遂げる、または名を為す人は皆無となります。最後の将軍慶喜は、最後の最後で「大政奉還」をやるだけの人ですので、それまでの綱吉、吉宗とはその功績において比較となりません。


 吉宗死後の9代、10代将軍の下で政治の実権を握ったのが日本史では悪名高い田沼意次です。次回以降は、その田沼政治についてご紹介して行きます。


 この田沼政治というものも、不当に貶められているものの一つだと思います。田沼政治は賄賂政治だと、その一面だけを教わった記憶があります。しかし、よく調べてみると、この田沼時代には都市の豊かさが農村にまで広がった時代なのです。農村のこどもが寺子屋に通うという習慣は、この頃から始まっています。有名な小林一茶は、田沼時代の農民の出です。このことだけでも、田沼時代の不当な評価の一端がおわかりになるかと思います。


 今日はこれまで。

0 件のコメント:

コメントを投稿