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2010年9月26日日曜日

組織能力とは その5

 吉宗の改革を一言で表せば、江戸幕府と経済の大リストラと言えるかも知れません。制度疲労を起こしていた当時の社会の立て直しです。財政、物価、人心、まさしく社会の全ての改革に迫られていたのが吉宗が将軍に就任したときの状況だったのです。


 吉宗が最初に出した「検約令」は、大火にマッチ箱で消火にあたるようなもの。そんなことをしても財政は上向くはずもなく、御家人への給与支払いも遅配・欠配するようになります。 そんな状況にあっても、吉宗は将軍就任の際自分を押してくれた門閥層に遠慮して、就任直後には実のあがる改革策を実行しなかったと前回書きました。それが、将軍就任後7年が経ち、吉宗擁立の最大の功労者であった老中井上河内守が死ぬのです。待ってましたとばかりに、吉宗は改革策を次々と打ち出して行きます。 「死んでも人の惜しまぬもの、鼠とらぬ猫と井上河内守」という歌が巷間に流れたといいます。


 吉宗は就任直後、財政再建のプロジェクトチームを作らせました。そのリーダ―は吉宗自らが任命した老中水野忠之。彼を責任者に、勘定所の有能な若手を抜擢してチームを組織したのです。ちょうど井上河内守が亡くなった直後から、そこで考え出されてきた改革案がでてきます。それは、


 ・年貢率の引上げ
 ・新田開発


という非常にシンプルなもの。年貢率は江戸時代初期には七公三民だったのが、徐々に下がり始め、元禄時代には三公七民と逆転し、この段階では三公も割り込んでいました。吉宗はそれを五公五民くらいまで引き上げようとするのです。しかしながら、これは並大抵のことではありませんでした。幕府は一揆の多発は領主の責任として、時に領地没収まですることもあったのですが、享保年間では幕府直轄の天領で一揆が多発するのです。年貢率の引き上げに対する反対運動でした。吉宗は最後まで年貢率の引き上げを実現しようと目論んでいた一方、そんなに無理はできないとも思っていました。吉宗時代最後の勘定奉行神尾若狭守は、「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほどでるものなり」と放言したと言われ、農民に対し苛烈な政治を布いていた江戸時代施政者の象徴とされていますが、その彼でも最高は35%にしかその率を引き上げることは出来ませんでした。また、この神尾の放言もよくよく考えてみると、「絞っても絞っても、なお領主側が余剰部分を取り切れない」という状態を表してもいます。つまり、徴租力の低下を表す言葉なのです。


 また、吉宗はこれまでの年貢を取る方式「検見取法」から「定免法」に変えました。「検見取法」というのは、その年々の米の出来具合を細かく検査し、豊作・凶作に合わせて年貢率を変える方法で、理想的な方法でしたが領主側の手間が毎年毎年非常にかかり、しかも農民側にとっても賄賂などにより査定も変わるとあって評判が悪かったのです。


 吉宗はこれを改めて、毎年一定の率とする「定免法」に変えたのです。これの問題点は、凶作時における年貢率の固定が農民に大きな負担をかけることとなることですが、彼は代官たちにモデル村落をつくらせ、収穫量、生産費、生活費、年貢量などを細かく計算させ、その調査結果から「収穫量が30%以上減る凶作時には、定免法を適用しないというルールを作るのです。その場合には「検見取法」を適用するとしたのです。これを「破免法」といい、このルールは江戸時代が終わるまで幕府の基本政策となっていきます。


 ちなみに、その吉宗の年貢率を上げる苦労を、吉宗の子家重(9代将軍)の小姓としてつぶさに見ていたのが、10代将軍の側用人として改革を行うことになる田沼意次であり、彼の改革策は増税なしに収入を増やすという方法をとるわけです。彼は僕らが教科書で習った「賄賂」まみれの悪い役人では決してないような気がします。


 話を戻します。財政再建プロジェクトチームのもう一つの施策新田開発は、即効性こそありませんでしたが、数年後には見事に実を結ぶことになります。新田開発に際しては、当該地の大商人の資本を使い、その見返りに1割5分の小作料を補償する政策がとられました。社会資本整備に民間の資金を使うというこの方法は、今でいうPFIみたいなものですね。この頃の開発された新田は、埼玉の見沼代用水新田、新潟の紫雲寺潟新田等があります。


 また即効薬としては、「上米令」というものも布告しています。これは参勤交代の江戸在勤期間を半年に短縮する代わりに、各大名に、石高1万石につき百石ずつの米を幕府に献上させるというものです。


 享保7年(1722)から始まった吉宗の改革により、享保15年(1730年)には幕府財政は黒字を達成するのです。


一方、吉宗は後に「米将軍」とまで言われた程、「米価の統制」に取り組んだ人でもありました。ここで、なぜ彼がそれに取り組まざるを得なかったのかの社会情勢を説明します。

ご存じのとおり、江戸時代は「石高制社会」であり、社会的な富の量を、米の単位である「石」で表していました。米が社会の基礎だったのです。こうした制度が成り立つためには、米価とそれ以外の値段のバランスが取れており、米価が上がれば諸物価も上がり、米価が下がれば諸物価も下がるという条件・バランスが必要です。元禄時代まではこの条件がほぼ適用できる時代でした。しかし、元禄時代の経済的繁栄とその崩壊は、それを崩してしまったのです。

米価は江戸時代初期から、ずっと上昇傾向にありました。その上昇カーブがきつくなるのは、4代将軍の頃(1670年前後)からです。完全な消費地である都市の膨張が激しくなり、都市人口が急増したためと考えられています。消費人口が増加したのに、供給がそれに追いつかなければ、物価は当然上がります。米価とそれ以外の物価とのアンバランスに対しては4代家綱、5代綱吉ともに米の増産という手を打ちます。そうして元禄後半(1700年頃)になると、米価は徐々に下がり始めます。しかし、依然として米価とともには他の物価は下がらなかったのです。庶民の可処分所得は多く、様々な商品を買って生活水準を高めたいという欲求も強かったので、諸物価は容易には下がらなかったのです。その上、武士階級は、米で給料をもらい、それをお金に換えることで物を買っていたので、米価安・諸物価高という状況は彼らの生活を困窮させることとなりました。

吉宗はそういう状況で将軍になりました。そのため米価問題に取り組まざるを得なかったのです。吉宗は大阪の米市場を江戸で掌握しようとする試みや、それまで幕府が米価抑制のために禁止していた「空取引」を、逆に奨励しそのための幕府公認の空取引市場を大阪堂島に作るなどします。目的は「米価の引上げ」です。他にも米の実需要を増やすために酒造りを奨励します。元禄のころは、米価高騰の原因でもあった酒造りを、今度は奨励するのです。しかし、彼の行った様々な施策は、既得権益を守ろうとする抵抗勢力の反対もあり、結果的に全てが中途半端に終わり、実のあるものとはなりませんでした。彼が米価問題に取り組んでいた期間は10年を超えます。吉宗は米価政策を志半ばで投げ出してしまいます。享保20年(1735年)のことです。

しかしながら、米価政策の中止にはもう一つ要因がありました。同時に進められていた諸物価の統制政策が功を奏し始め、米価をあげずとも済むようになったからです。これを進めていたのは大岡越前でした。

整理します。米価安・諸物価高という状況です。吉宗は米価安を是正しようとしました。一方の大岡越前は、米価安を受け入れ、諸物価高を是正しようとしたのです。二人は、政策論争に明け暮れていたと前に書きましたが、ここでも完全にその施策の方向が分れたのです。しかし、吉宗は自分とは相容れない施策を許す度量がありました。

大岡越前の具体的な政策、彼はどのようにして物価高に立ち向かったのかは次回にします。大岡がこのとき成し遂げた改革は、今も日本の流通慣習として残っていると言えば、皆さんは驚くでしょうか?

今日はこれまで。
 


 




 
 

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