人気の投稿

2010年9月24日金曜日

組織能力とは その3

今日はその3です。


幕府中興の祖、徳川吉宗の治政についてを述べようと思いましたが、その前段だけで終ってしまうかも知れません。毎日行き当たりばったりで書いているので、ご容赦ください。


 前回までに元禄時代に、いかにそれまでの日本社会が変質したかを説明してきました。年貢率の低下、経済の活性、庶民市場の誕生、流通網の発達等々・・・。これを成し遂げる原動力となったのが、従来の身分秩序からは逸脱する能力主義の採用でした。前に述べた荻原重秀がその最たる者です。綱吉から8代の吉宗までの時代を「側用人の時代」と呼びますが、側用人は、老中ではなく、身分も高い人たちではありませんでした。ただ、将軍からの信頼が厚く、各種の能力においてすぐれていた人々とみることができます。お抱えのテクノクラートと言ってもいいでしょう。


 荻原重秀と言う人は、「貨幣などは、実は瓦でも何でもいいのだ」とこの時代に言い放ったと言われ、貨幣の本質を正確に捉えていたほど、財務的な能力に優れていた人でした。彼は貨幣改鋳をやってのけるのですが、その頃は経済規模の増大により、貨幣需要が増大し、外国との貿易による金・銀の流出によって、それまでの含有量では貨幣を発行出来ない程になっていました。かつてマルコ・ポーロが「黄金の国」と呼んだ日本も、その頃には既に当時の技術で掘り出せる金鉱脈がなくなっており、貨幣を作る地金そのものが足りなかったのです。彼は、それまでの金・銀の含有量を大幅に減らし、それによって貨幣の流通量を増やしたわけです。


 また、彼は当時江戸は金、大阪は銀が基本通貨として流通していたため、江戸の物価高を緩和しようとして、銀の価値を下げ、金の価値を上げることを目論みます。また、「酒」に流通税をかけようとも目論んだと言われています。銀の価値を減じようとする彼の策は、当然大阪商人らの猛反対にあい、それが結果的に彼の失脚につながっていきます。


 元禄時代は、史上初めて出現した商業の時代でした。治政のかじ取りは財務の知識なくしては勤まらなかったでしょう。その時期に、荻原重秀という財務官僚を抜擢し、その手腕を震わせたことは綱吉の時代の大きな評価点であったと思います。それまでの重農社会から重商社会へと大きく転換した時代だったのです。


 綱吉は約30年間に渡り将軍職にありましたが、続く6代家宣、7代家継の時代は僅か8年しかありません。しかも7代家継は僅か4歳で将軍なり、8歳でなくなっています。この時代に政治を取り仕切ったのが、側用人であった間部詮房と、その親任の厚かった儒学者新井白石の二人でした。この二人の治政は教科書では「正徳の治」と習ったはずです。綱吉の頃の側用人、柳沢吉安と信任厚い荻原重秀と同じ図式です。ところが、間部、新井の二人は全くの経済音痴でした。新井白石は、荻原重秀を忌み嫌っていたとは前述しました。新井白石の政治は、振れ過ぎた「重商」の針を大きく戻す事に向けられ、荻原の成した貨幣改鋳を再び元に戻してしまい、荻原貨幣の流通を厳しく取り締まることまでしたため、貨幣の流通量が激減、猛烈なデフレの波が日本を襲うことになりました。最近の日本経済の流れと同様ですね・・・。


 ただし、新井白石は国家収支という概念を初めて持ちこんだとも言われ、貿易収支の不均衡を是正すべきための施策も打ち出しました。それまでの日本は完全な輸入超過で、金銀の海外への流出に歯止めがかからずにいたものに対して、制限を掛けたのです。それまでの輸入品のトップは絹製品でした。しかし、これは綱吉の頃からあった奢侈品の輸入規制の強化版ともいうもので、新井白石自身の功績といえるものではありません。




 元禄後期で発生したインフレが、新井白石による引き締めにより今度は猛烈なデフレとなってしまった中、8代将軍として登場したのが徳川吉宗であったのです。


 日本にある各地の明産品の多くは、吉宗の時代に確立したものだと以前ここで紹介しました。吉宗は、デフレにあえいでいる経済と、赤字を出し続ける幕府の財政を「殖産興業」という形で脱出させようと試みるのです。詳細は次回にしますが、彼は、それまでの農業が米や麦などの主穀以外を作ってはならないとするものだったのに対し、それぞれの土地に最も適した産物を作付けさせるということをやったのです。この政策の結果、当時の輸入第一品目であった生糸も江戸時代後半になると逆に最大の輸出品となり、それは昭和初頭までの日本経済を支えるものとなっていくのです。明治維新後から昭和16年くらいまで、日本は生糸を輸出して得た外貨で様々な武器や工作機械を購入していたのです。言い換えれば、明治後の日本の戦争遂行能力は、徳川吉宗によるところが非常に大きいということになります。


 予想通り、吉宗登場の前でかなりの分量になりましたので、続きはまた明日。


今日はこれまで。





0 件のコメント:

コメントを投稿