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2010年9月8日水曜日

乃木の殉死と「こころ」

 昨日、乃木希典の評価の事を持ち出してここに書き綴った後、つらつら考えました。僕が言いたかった事は、今の世の中の価値判断は「有能か否か」であり、たかだか職業上での能力の高低がその人間全体を評価してしまっている事への僕なりの異和感を述べた積りでした。もっと言うなら、稼ぐ金額の多寡でさえ評価軸になってしまい、乃木が体現していたであろう「徳」を持つ人間への評価軸は今や無きに等しいと・・・。価値の基準が全て「損得」になってしまっているような気がするのです。それとは違う基準を「徳」があるかないかという福田和也の言葉を借りたわけです。福田自身も「有徳」といった基準、観念が失われてしまったことに、深い哀惜の情を綴っています。僕も痛切にそう思っています。


 
 さて、今日はその主旨とは外れて、再び乃木の殉死と夏目漱石「こころ」を題材に述べようと思います。


 
 乃木が知人に宛てた遺書は、乃木の殉死した直後に新聞に載りました。


「・・・・小生此度の処決は西南戦以来之心事に候得共斯く畏くも御跡を追ひ奉り候様の場合可有之とは予想も不仕恐入候儀に御座候空敷く今日を過候・・・」


 乃木は前線指揮官として従軍した西南戦争時に軍旗を敵に奪われるという負け戦をします。その申し訳なさにいつかは死のう、死のうとずっと心に刻んでいたというのです。




 夏目漱石の「こころ」の最後の部分に、乃木の殉死について語る「先生」の文章が出てきます。


「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く命じの影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を撃ちました。私はあからさまに妻にそう云いました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然渡しに、では殉死でもしたらよかろうとからかいました」


「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。それから約一カ月ほど経ちました。御大喪の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だと云いました。」


「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き遺して行ったものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きてきたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定してみました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうを思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。p私はそういう人にとって、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。」


 皆さんのご承知のとおり、「先生」はこれを契機として「自殺」を考え実行していくことになります。




 吉田精一という国文学者は、「こころ」の解説に次のように書いています。


「漱石とは対蹠的な生活者であった永井荷風は、晩年の詩の一つの中で、『我は明治の子ならずや』とうたっている。漱石は荷風以上に、まさに『明治の人間』だった。そのモラル・バックボーンの骨太さにおいて、そのゆたかな向日性において、その東洋と西洋との深いところでの混淆において、彼はまさに明治精神の一権化であった。その漱石が『明治の精神』に殉死するために、彼自身は自殺しないまでも、心の体験として、長い時期にわたっての『罪』の意識を消却するためという理由を付けて、自分に代って『先生』に自殺の機会を与えたのが『こころ』だったのである。」




 今日はこれまで。





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