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2010年9月22日水曜日

組織能力とは その1

 のっけから恐縮ですが、日本史の復習です。

1853年ペリー浦賀に来る
1854年日米和親条約締結

このペリーの来航から明治維新までを「幕末」といいます。動乱の幕開けとなった出来事ですね。

ぺリーの来航は国中をひっくり返したような大騒ぎとなりました。このまま鎖国か開国するかの二者択一に幕府や諸藩の有志が大いに揺れました。江戸幕府は、最初のペリー来航時に1年間の猶予をもらいました。事は重大だから、1年後に返答すると言い、体よく追い返したのです。

ペリーを追い返した後、その1年間で幕府は何をしたのかといいますと何にもしなかったのです。僅かに、台場(砲台)を作り、沿岸防備に備えたくらいで、要求通り開国するか、国是を守って鎖国を続けるかの侃々諤々の合議を繰り返していたのみでした。しかも、幕府内に「人物」がおらず、何の定見もなかったため、幕政史上初となる諸藩の意見を広く求めるということまでしてしまい、結果的に幕府の権威を失墜させてしまうという事態まで引き起こしたわけです。

幕府という組織の能力が完全に失われてしまっていたことがわかります。では、いつ頃からそうなってしまったのでしょうか、ということを考えてみたいと思います。とはいえ、話は元禄時代へさかのぼります。


 本日はその1です。


 外食という商売が一般化したのは元禄時代と言われています。それまで食事を提供するという商売は日本の中になかったのです。さて、元禄時代というのは大まかに言って、5代将軍徳川綱吉の頃(17世紀末から18世紀初頭)です。この将軍の評価は現在では不当に貶められていると思います。曰く「犬公方」と。このことについては後述します。

 元禄時代は、日本の社会の大転換期でした。経済的に豊かになった庶民の文化を「元禄文化」と後世が名付けたことからも明らかです。確か、この頃にそれまで「憂き世」であった文字が「浮き世」と変わったと記憶しています。生産力も向上し、城下町には新しい商売が増え、人口も急増した時代なのです。今の日本の「都市」というのは、多くはこの頃に誕生してます。

 「初物食い」という習慣は、元禄時代から始まりました。即ち、この頃には流通経路が全国をおおっていたことを意味します。幕府は、「初物」に高騰する物価を抑制するため「初物禁止令」なる法律を出しています。これによると、生シイタケは正月から4月まで、茄子と枇杷は五月から、梨は8月から11月・・・というように。物価統制をねらったものです。

 薪を背負いながら本を読む二宮金次郎。彼は、貧しい伯父さんの家に預けられ朝から晩まで働き、夜には灯火の下で本を読み、「油がもったいない」と怒られる話があります。彼は18世紀末の人なので、元禄時代よりかなり後の生れですが、注目すべきは、この頃の農家には「灯火」があったと云う事。この灯火の普及は元禄時代からでした。生活時間が延長されたことを意味します。そして、それまで1日2食だったのが1日3食になったのです。

 「呉服問屋」という言葉が時代劇によく出てきます。有名なのが今の三井グループの元となる「越後屋」ですが、彼の主要顧客は、支配者層ではなく言うならば庶民層、若しくは全国の庶民層相手の呉服屋の卸問屋でした。当時のセレブであった大名や、旗本には従来からの商売人があり、そこへは容易なことでは参入できなかったため、ニッチの市場を狙ったといえるでしょう。つまり、ニッチな市場が存在していたという事実があります。

 井原西鶴が活躍したのもこの時代です。「日本永代蔵」「世間胸算用」などの彼のベストセラーは、要するに「金持ちは如何にして金持ちになったか」を書いたもので、今でいうなら「金持ち父さんと貧乏父さん」みたいなものでしょう。

 このような時代文化をつくりあげた背景には、年貢率の低下によって経済全体が活性化した事実があります。新井白石は綱吉が死んで後、幕政に参画した儒学者ですが、彼の著作に「とうとう年貢率が3割をきってしまっている」という記述があります。この頃は「三公七民」ですらなかったのです。

 ここで、誤解を解くために説明しておきますが、江戸幕府は中央集権政府ではなかったので、ここでいう年貢率は全国の諸藩共通ではありません。ここで言う年貢率は、あくまでも幕府の直轄地のことです。したがって、全国に約260あった諸藩の年貢率がどうであったかは、僕の知識外です。もしかしたら、藩によっては圧政、年貢率はもっと高かったところもあったのかも知れませし、幕府に倣って同様の年貢率であったのかも知れません。ただ総じて、この頃は幕府同様の低い年貢率であったのではないかと考えられます。諸藩において一揆が頻発すると、幕府はそれを藩主に正すよう命じることができたからで、諸藩においては一揆の頻発はまさに「お家」の一大事であったからです。最悪は、領地の没収です。農民が圧政を幕府に直訴し、そうなった事例もありました。

 諸藩の財政が悪化していくのは、元禄時代からです。年貢率の低下、即ち収入の減収よりも、奢侈にながれた支出の過多が原因です。そして、収支が悪化した諸藩はその穴埋めのために、商人からの借金を常態化させていくのです。ところが、元禄時代の後期には早くもその踏み倒しが行われ、生産と消費をつなぐ流通を一手に担ってきた商人たちが没落していくという、バブルの崩壊が始まるのです。


 さて、五代将軍綱吉の時代は、このような時代でした。彼の治世下には「赤穂浪士事件」が起きています。綱吉は、自身が将軍になるにあたっての後継者選びのごたごたから、将軍になったときそれまでの老中やら奉行やらを全て罷免し、フリーハンドで将軍になりました。今でいえば、完全な政権交代ですね。それも主だった官僚すらも総とっかえできたのです。そしてその代わりに最も重用したのが、自らの小姓をつとめた家来であった柳沢吉安(この人の屋敷跡が六義園)です。彼は「側用人(そばようにん)」と言われ、老中でも奉行でもなく、今でいえば官房長官みたいなものでしょうか、幕政の実権を握っていくのです。それまでの禄高に応じた固定された人材登用のレールからは、決して出てこない人物です。綱吉は彼を信頼し、彼もその期待によく応え、史上初めて経験する経済の急速な拡大に対応していったのです。綱吉は、また「勘定吟味役」という今でいう会計検査院を創設し、お金の流れを専門に監査させました。綱吉は能力に拠り人材を抜擢したと云います。代表的なのが、荻原重秀という勘定奉行でしょう。今でいう大蔵大臣の役目はそれまで3000石以上の旗本の役職でした。彼は、勘定所に名を連ねる役人でしたが、その序列は一番下で、いわば木端役人でした。その荻原は、抜群の経済センスを発揮して様々な改革を行っていくのです。「関東総検地」「貨幣改鋳」などの事業がそうです。優秀な経済官僚でしたが、今その名を知る人はほとんどいないのは、後の新井白石の政敵であったからで、現在の歴史では新井白石を評価し、荻原、そして柳沢、綱吉を評価していないのです。

 
さて、「生類憐みの令」。後世悪名高いこの法令についてご紹介します。以前、ここで「ハムラビ法典」の法理というか、その背景についてご紹介しました。


 この生類憐みの令も、不当にネガティブな面だけが強調され過ぎている嫌いがあるように思います。そもそも、幕府は出した法令の中にその名を称する法令はないのです。各種ある、それらしきものを総称して後世がそう名付けたに過ぎないのです。そしてそれらしき法令を分類すると、広義のそれと狭義のそれの2種類があり、後世は狭義のそれしか見ていない。。狭義には、中野に設けられた犬小屋も出てきて、それが、後に綱吉といえば「犬公方」という以上で無能な将軍というイメージができあがってしまった原因でもあります。

 では、広義のそれはいかなるものなのか、長くなりましたので続きは明日にしたいと思います。触りだけ書きますと、綱吉の時代に限らず幕府は多くのそういった法令を出しています。その法理、背景は「戦国の遺風(下剋上)の一掃」「安定社会の実現」にありました。
 


 今日はこれまで。続く




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