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2010年12月6日月曜日

忠孝礼 江戸期の庶民教育

忠孝をはげまし、夫婦兄弟諸親類にむつまじく、召仕之者に至迄憐愍(れんびん)をくはふべし。若不忠不孝之者あらば、可為重罪事。

これは、5代将軍綱吉が1682年に全国に建てた高札の条文です。重罪の威嚇をもって庶民に「忠孝」を強制しているもので、「忠孝礼」と呼ばれています。綱吉施政の特徴の一つは、儒教的道徳を庶民に指し示したことにあり、以前紹介した「生類憐みの令」なるものも、その一環であると考えられます。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/2.html


さて、庶民教育において「寺子屋」というものが果たした役割が大きいことは想像がつくと思います。その寺子屋の急激な増加は、享保期以降のこととされています。8代将軍吉宗の頃からです。吉宗に仕えた儒者、室鳩巣(むろきゅうそう)の記録によれば、その頃江戸市中には840人もの手習いの師匠がいたと書かれています。それだけの寺子屋が存在していたと見るべきでしょう。

その寺子屋で手習いの手本として使われていたのが「六愉衍義大意(りくゆえんぎたいい)」と呼ばれるもので、吉宗が室鳩巣にこれを命じ、室鳩巣は荻生徂徠に依頼して出来上がったものです。

六愉とは

1.孝順父母(父母に孝順なれ)
2.尊敬長上(長上を尊敬せよ)
3.和睦郷里(郷里に和睦せよ)
4.教訓子孫(子孫を教訓せよ)
5.各安生理(おのおの生理を安んぜよ)
6.毋作非為(非為をなすなかれ)

という6項目の道徳が説かれたもので、1652年に中国清朝から日本にもたらされたものです。吉宗はこれを献上され、庶民教育の教科書に仕立て上げようとしたわけです。したがって、この「六愉衍義大意」は、わが国初の国定教科書といえるものです。

これは、江戸期を通じてかなり普及したと言われています。庶民の日常の道徳観念として広がったということです。

江戸期には、「孝義録」「続編孝義録料」「忠孝誌」などの全国の百姓・町人で、善行により表彰された者を集めた記録があります。その表彰の理由は様々ですが、

「概していえば、一身の労苦をいとわず、零落した主家や貧しい父母のために働いて経済的に生活を助け、あるいは看病をするという事例が多い」(「江戸時代を考える」辻達也)

らしいのですが、同様に辻によればその中には、件数は少ないものの、病気の父のために本を読んでやるとか、零落した主家を去らずにその家の者に読み書きを教えるといった、下層民の教養に関する事例もあるとのこと。2つばかり紹介しましょう。

1791年(寛政3年)
深川北町 さよ 28歳 店借 あんま春養養女
家が貧しいので、武家に奉公する、そのとき、手習い、琴を学ぶ。読書を好み、給金の余りで四書五経を求めて読む。暇をとってのち、家計の助けに、近所の女子に読み書き、琴、女の道を教える。結婚せず、両親に孝養を尽くす。

1813年(文化10年)
深川蛤町 善太郎 16歳 店借
父は病身、母は病死。祖母と二人で漁やむき身の手伝いをし、父を養う。商いの手すきに手習いをし、弟にも教える。

(出所「江戸時代を考える」辻達也)


この六愉は今の教育からすっぽりと抜け落ちているものでしょうね。僕はそう思います。「仰げば尊し」の歌詞にある「身を立て名を挙げやよはげめよ」が、自身の立身出世主義にあるとかいう馬鹿な解釈が世を覆うに至っては、何をかいわんやです・・・。

この教育は今の世に合わないのでしょうか?今の世「民主主義」社会にです。そんなことはないでしょう。民主主義などという政治体制の一つに合わせて人間を教育する事は、いい加減にやめたらどうかとうのが僕の意見です。「政治」から人間を語り、教育するなどおかしいと思いませんか?


かつて「ミスター日教組」と呼ばれた槙枝元文氏が亡くなられたと日経の死亡記事に出てました。彼は元日教組委員長、元総評議長を務めた左翼の「闘士」でもありました。そんな氏ですが、酔うとよくうたう歌は「同期の桜」だったと聞いたことがあります。僕とは思想信条が水と油の如く異なると思う氏も、その一点のみつながるものがあります。彼もまた「日本人」だったと思うからです。

今日はこれまで。

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