人気の投稿

2010年12月8日水曜日

大詔奉戴日から考える

12月8日は、昭和17年のその日から大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)と名付けられます。天皇陛下が開戦の詔勅を出された日ですので、それを「戴いた」日ということですね。いうまでもなく真珠湾攻撃の日であり、大東亜戦争開戦の日です。もう69年前の出来事。

真珠湾攻撃。

純粋にその作戦規模だけを考えた場合、あれだけの国家的事業、歴史的事件に参加しえた将兵らの興奮と感激はいかばかりであったでしょう。恐らく一番若いパイロットは18歳くらいでしょうから、存命ならば既に90歳近い年齢です。参加航空機は空母6隻に搭載された350機、これが第一次、二次と分れて真珠湾攻撃に向かったわけですから、それぞれの攻撃は一面、日の丸を輝かせた日本の飛行機が空をおおって進撃したことになります。

「武者震いがとまらなかった」

参加したパイロット、艦艇乗組員は皆このようにいいます。


現実に日の丸をつけた飛行機が上空を我が物顔で飛んでいる姿を目の当たりにしながらも、

「あれはドイツ人がとばしている」

と、思っていた米軍人がいたほど、先入観というか思い込みは恐ろしい・・・。日本人は、「眼鏡をかけたガニマタの猿」ですのでね。


巷間、あれで大艦巨砲主義は終焉し、それをいち早く米海軍は読みとって航空主兵に転換したが、日本海軍はそのドラスティックな転換ができなかったと言われています。

前に「海軍反省会」という本を紹介しました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/07/653.html

アメリカは、リスクを冒して航空主兵に転換し、日本はリスクを冒せずに中途半端な状態となります。ただ、日本がリスクを冒し得なかったことも十分すぎるほどわかります。日本は貧乏だったからです。国民のまさに血税でやっと揃えた兵器。国家財政からいっても、工業力からいっても、それを大事に大事に使わなければならないという思いが、身に染みついていたのだと思います。変わりに無尽蔵だと錯覚したのが「兵士の命」。何とも哀しいです。


「今次大戦を支那事変を含め大東亜戦争と称する」


僕らの父祖は「太平洋戦争」を戦ったのではなく「大東亜戦争」を戦ったのです。その呼称を抹殺したのはGHQです。そして独立後もその命令に唯々諾々と従っている奇妙な国、自らの歴史と言葉使いまでも奪われている国、それがこの国の姿なのです。

歴史がなかったら「国民」はありません。僕には「領土」よりもこの「国民」の喪失の方が大問題のように思えます。

今日はこれまで。

0 件のコメント:

コメントを投稿