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2010年12月10日金曜日

原風景

僕は7歳になるまで新潟市に住んでいました。休みの日にはよく両親に連れられて、両親の故郷である三条市へ鉄道で出掛けていたように記憶しています。三条市は新潟市と長岡市との丁度中間くらいにあります。

車窓から臨む一面の田。米どころ、越後平野が僕の記憶に残る最初の風景かも知れません。それを原風景とするなら、まさしくそれがそうだと思います。

この田園風景。

日本に稲作が伝わったのは弥生時代と言われていますから、2000年以上前からの日本の風景かといえば、そうではありません。これはおそらく江戸時代初頭に形成されたものらしい。そしてこれは日本の都市形成と密接にかかわっていることで、簡単にいうと武田信玄の治水技術に代表される様な土木技術の進歩によって、灌漑可能な耕地面積が増えたことによります。

そういえば、「スーパー堤防」が事業仕分けの俎上にのった時、テリー伊藤が

「日本はヨーロッパと比べて堤防が立派過ぎて、容易に水面に近付けない」

と朝のワイドショー番組で言ってましたが、こういう馬鹿な物言いに騙されてはいけませんよ。明治後、ヨーロッパから招かれた土木技術者は、日本の河川を称して「これは川ではなく滝である」といいましたが、なだらかに流れるヨーロッパの河川と比べて、急峻な地形を流れる日本の川の急流さを表したものです。地図を想起すればすぐにわかることですね。地形条件が違いすぎるのだから、同列に論じるのは馬鹿の所業。

話を戻します。

川を「いかに治めるか」が、施政者=領主・幕府の役割であったわけで、その仕事は「御」普請と呼ばれました。大規模土木工事だと思って下さい。そうしてその完了後にそこに耕地を求めて多くの人が移り住んだわけです。古代や中世の日本人は、山麓や大地、山間部が主な居住地でした。江戸時代の初期になって初めて、居住地と生産活動の場として大河川中下流域の平地に移行したわけです。

各地で耕地面積の拡大が起こります。開発ラッシュですね。ところが、ここが日本人の面白い所。面白いというより、日本民族の心性を探る上で非常に重要な事実があります。

1666年に出された「諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)」です。これは簡単に言うと乱開発を禁じた法令です。

1.過剰開発の禁止
2.植林の勧め
3.川敷の開発、埋立ての禁止
4.焼畑禁止

自然保護法令の嚆矢でしょう。日本人が自然というものにどのように向き合ってきたのかがわかるものだと思います。朝鮮半島を併合した直後に半島の山々に植林をおこなってもいますしね。古代の地中海貿易を支えた船の材料は「レバノン杉」でしたが、今やそこにそれはありません。

この日本人の「自然」との向き合い方、例えば日本では耕作に家畜が使用されなかったことなども含めて、非常に心優しい心性を感じてしまうのは僕だけでしょうか。

今日はこれまで。

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