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2010年12月27日月曜日

目にしたくなかったもの・・・日経中外時評より

 内田樹がネットの情報と、新聞の情報を比べて、ネットの情報は自ら望むものしか見る事ができないが、新聞の情報はそうではないものまで見る事ができるというようなことを書いてました。確かに新聞は拡げるだけで、様々な情報があって取捨選択しますからね。そんな過程、ふと目にとまる記事から思わぬヒントや、発見やらをする機会があります。ネットで検索するとそうはいかない。そもそも「捨」てる必要のある情報は検索しないわけですから。

と、内田のポジティブな意見はわかりますが、今日はネガティブな面・・・。つまり、新聞を拡げなければ目にすることのなかった記事を、読んでしまったための不幸・・・。

「見るだけで読まなければいいのに・・・」

とは言わないでください。そこまで目にしたら読まずにいられないのが人情でしょう。

さて、本題です。



アクトン卿の有名な言葉

「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する」

を冒頭にひいた26日の「中外時評」日経記事は、またまた首をかしげざるを得ないものでした。僕には新聞記者の友人も知り合いもいませんので、僕の偏見ですが記者というのは「鼻もちならない」人間が多いと思っています。知識人づらするというのでしょうか、しかもよってたつ知識は浅薄なくせに、自分こそが社会の木鐸であるという使命感だけは妙にある・・・。あくまでも偏見です。

しかし、この記事を書いた論説委員はもしかしたらそんな一人かも知れません。

記事は冒頭の言葉を次のように言い換えます。

「権力は隠す。絶対的な権力は絶対に隠す」

そもそも、この言い換えからしてよくわからないのですが、わざわざアクトン卿の言葉をもって来るまでもないでしょう。要するに、権力が「隠す」ものを暴くことがメディアに求められてるというわけです。しかるに、昨今の状況は「暴く」ことがメディアの専権ではなくなってきていることを、この論説委員はいうのです。尖閣衝突ビデオの流出や、ウィキリークスのことを例にあげてます。

これを要するに、

「取材や報道という既存メディアとは無縁の仕組みで情報が流れたということだろう」

とまとめます。確かにのその通りですね。そして既存のメディアとインターネットとの差を次のように述べます。

「既存のメディアは取材で集めた情報を吟味し、加工する。真偽の確認。伝えるに値するのはどこか。伝えるべきでないのはどこか。軽重の順序。新聞ならスペース、テレビなら時間の制約もある。そうしたチェックのうえで報道する。ニュースをひとつの文法にそって受けてに流す、と言えばいいだろう。


ネットの情報は、その出所も真偽すら不明なものが多い。しかし、ネットの情報を鵜呑みにする人はまずいないでしょう。したがって、この委員がおそらく心配しているような、真偽不明の情報に踊らされる人はそう多くはないでしょう。受け手はそれぞれ使い分けしてますよ。

「事件の背景には、既存メディアが求められている役割を十分に果たしていないという不信がある、との指摘が出ている。批判には耳を傾けねばならない」

委員は、殊勝にも反省の色を見せているかのようです。しかし、おそらく反省などはしていないと思います。自らの情報とネットの情報のヒエラルキーを勝手に定め、自らの情報が「上」という妙な思い込みが文章に感じられます。

最後はこう締めくくられています。

「既存メディアの文法は長い時間をかけて作られてきた。相次ぐネットへの情報流出は、その文法が通用しない世界の出現を見せつけている。もし文法がないことこそネットの真骨頂だというような見方があるとしたら、それは危うさを助長するものでしかない。」

僕も「暴く」ということが何の視点も、道徳性ももたずにあたかも「正義」であるかのようにもてはやされる事態など断じて反対です。その一点ではこの委員に同意します。「文法」という表現を使っていますが、準拠すべき「文法」は確かに必要です。

この委員の問題は、というより大方の既存メディアの問題は、この既存の「文法」自身がもはや間違っているかも知れないと自己反省することのないことです。

この文法は何に立脚しているのか。

歪んだこの国「戦後民主主義」そのものではないか。

まずは自ら信奉するこの文法を疑いなさい。この国の若い世代は、かなりそれに気が付いていますよ。自らの国のマスコミはおかしいと。

今日はこれまで。






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