人気の投稿

2010年12月24日金曜日

反近代 陰翳礼讃

僕が若かりし頃に買った本の裏表紙には、

「敵は欺瞞に満ちた戦後民主義体制」

と書かれたものが多い。今でもその気持ちに変わりはないが、最近はどうも「戦後」という時代だけではなく、不必要に棄てなくてもいいものまで棄てざるを得なかった日本の「近代」そのものが僕にとっての「戦後」にかわるものになってきているようだ。それは「戦後」のような明確な「敵」とは、輪郭が定まっていないが、ずしりとのしかかる重しのようなものになっている。

昨日も批評家としての漱石を紹介したが、その続きでいえば、「反戦後」ではなく「反近代」こそが、僕にとっての問題意識になりつつあると言ってよいのかもしれない。

日本における「近代化」とは「西洋化」と同義語だった。和魂洋才とは福沢諭吉が言った言葉だか、無理やりに開かれた世界に伍して日本が生きていくためには、いや応なしに「洋才」を取り入れなければならなかった。これは日本の悲劇だ。

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」。

短遍ながらも、西洋化された日本の生活様式が一般化し、それまでの日本人の洗練された美意識が破壊され、いろいろな面で谷崎自身が感じている日本人の生活との不調和が述べられている。

「照明にしろ、暖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのにもちろん異議はないけれども、それならそれで、なぜもう少しわれわれの習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか」


僕らはもうこの谷崎の不満を「不満」とすら感じなくなってしまっている。

かつては住宅の中で一番日当たりのよい部屋を座敷として唯一のパブリックの用にしていた伝統建築の様式は、今の「エコ住宅」の中に残るのか否か。そういえば、僕ら世帯が暮らす2階には「畳」すらなくなっている。

「もし近代の医術が日本で成長したのであったら、病人を扱うp設備や機械も、何とか日本座敷に調和するように考案されていたであろう。これもわれわれが借り物のために損をしている一つの例である。」


もはやこれを「損」と感じなくなってしまっている現代に、谷崎のこれは何を問いかけているのと理解したらいいのだろう。

「われわれがすでに失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の襜(のき)を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない。一軒ぐらいそう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、ためしに電燈をけしてみることだ。」


 単純な懐古ではないことだけは確かだ。ただ「立ち止まる」ことを呼びかけているのだと僕は理解する。そうして思い返そう。近代以前のこの国の人間の生活のありように。

今日はこれまで。

0 件のコメント:

コメントを投稿