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2011年1月3日月曜日

歴史への愛着 



 本日(3日)付の日経1面記事についてです。「三度目の奇跡」というシリーズものです。

「開戦前、焼き捨てられた報告書」「現実を直視、今年こそ」

のタイトルが踊ります。

この記事では、大東亜戦争前に報告書としてまとめられた対米英国力比較を、陸軍首脳部は焼却を命じ、それを無視して無謀な戦争に飛び込んだと云いたいらしいです。

「現状認識を封印した戦争の結末は悲惨だった」


この文章がそれを表しています。これ「嘘」ですね。

陸軍だけでなく海軍首脳部、そして政府閣僚、当時の最高首脳部の全てが対米英戦にほぼ勝ち目はないことは正確に認識してました。だからこそ東条英機が「清水の舞台から飛び降りる心持」と、対米英戦争に突入せざるを得ないことを表現したのです。万に一つしか勝ち目はないことを認識していたからです。確かに、少壮幕僚の中にはドイツの破竹の勢いに目がくらみ、対米英国力など歯牙にもかけなかった者もいたとは思います。しかしながら、首脳部は間違いなく圧倒的な国力の差を正確に認識していました。

記事では陸軍がまとめた報告書しか対象とされてませんが、当時内閣直属の企画院でも同じようなことをまとめて、当然同じ結論を出しています。

「必ず勝てるのか!」と昭和天皇は、口調厳しく陸軍参謀総長、海軍軍令部長を詰問しました。その時の回答は

「必ず勝てるとは言いかねます。然しながら勝機がないとは言えません」

でした。「戦に必ず勝つ」とは言えない事ですし、「負ける戦に勝つ」こともありうるのが戦争だからです。

「万に一つの僥倖をたのみ『賭け』に出ざるを得なかった」

これこそが事実でしょう。決して現実を直視していなかったわけではない。


ただ過去を断罪することが「反省」だと思っているのでしょうか。しかももっとたちの悪いことに、事実ではないことを事実であるかのように装い、それを反省、断罪するなど、まるで「阿呆」の仕業。

「過去の断罪」とは、自らはそうされるには当たらないという高みにおいた者だけが為し得る傲慢な業だということに思いが至らないらしいです。

「歴史に学ぶ」とは、歴史への愛着、共感がなければ、それを為す事はできません。





「日本の歴史が、自分の鑑とならぬような日本人に、どうして新しい創造があり得ませうか。」


小林秀雄が昭和16年に述べた言葉です。

今日はこれまで。



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