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2011年7月16日土曜日

再び巡る日

昭和20年8月15日に、大日本帝国陸海軍はそれでもなお300万人超の動員兵力(あくまでの人数のみ)の余力を残しながら、戦いの矛を収めました。すでに敗勢明らかになっていたとはいえ、天皇陛下が「最後の一兵となるまで戦うべし」と言ったなら、文字どおりそうなるまで戦い続けたと思います。

戦後、大日本帝国と直接干戈を交えた連合軍の司令官級の軍人の少なくない人が、回想録やら手記などを著しました。その中の一人である英国人スリム中将、彼はインド東部今のミャンマー(当時ビルマ)において日本軍と対峙した部隊にいましたが、彼はこう言っています。

最後の一兵まで戦えとよく言うが、私の知る限り文字通りそうなるまで戦うのは日本人のみである。
これは、彼の著書「高貴なる敗北」に出てた言葉です。

また、真偽は明らかではありませんがこんな逸話もあるらしい。

天皇陛下が皇太子時代に、どこかの国が主催の晩餐会にご出席なされたとき、隣に座られたのが、第二次大戦時東南アジア方面の英国陸軍の総司令官であったマウントバッテン卿。卿は皇太子にこうささやいたといいます。。

過ぐる大戦において、私が戦った殿下の国の軍隊は、古今東西の歴史の中でもまたこれからも二度と現われることもないでしょう。
死力を尽くして祖国のために戦った兵士たちを褒め称えた言葉であることは言うまでもありません。

娘の国語の教科書にまた戦争を題材にしたお涙頂戴の物語が出てます。3年生の頃にもありましたから、なぜこうもしつこく扱うのかその意味がわかりません。こういう刷り込みをするから「戦争」というものを冷静に議論することができなくなり、ただその言葉の後ろに「反対」という言葉をくっつけて使えばいいような、そんな思考停止の人間が多くでてくるのかも知れませんね。

しかも、その話の時代考証が僕にはおかしく感じられてしかたない。

空襲が激しくなって、毎日敵の飛行機が爆弾を落としていた頃の家族の話なのですが、となると、間違いなく昭和20年の3月以降のことになります。そして、家族のお父さんが徴兵されて駅のホームで家族と別れるのが、コスモスの咲く季節らしいので5月~6月くらいのことですね。そのころは沖縄も米軍の占領下になっていました。日本の四海は完全に米軍の支配化にありました。
おそらく、あくまでもおそらくですが、その頃に徴兵された人というのは輸送船に乗って外地に出るより、来るべき本土決戦に備えて泥縄的に配置されつつあった太平洋沿岸へと配属されたはずです。したがって、死の確実性は低かったはず。
でも、その家族のお父さんは帰ってこないのです。そういう話の終わりになります。

「ちちうえも、戦争になったら君やママを守るために戦いにいくぞ。でも年とってるから兵隊にはなれないけど・・・」
僕の抵抗です。娘にはこう言いました。
「年とってると兵隊になれないの?あ~よかった」
というのが娘の答えでした。

昭和天皇の終戦の決断は「聖断」と言われています。本当に天皇陛下が「戦をやめよ」といわなかったら、この国は一体どうなっていたのか・・・。そんなことを考えてみたくもなります。本土決戦が行われていたら、おそらく軍民合わせて300万人超の戦没者ではすまなかったでしょう。全国土が壊滅したドイツでは800万人くらいの戦没者数ですからね。

また再びあの日がめぐってきます・・・。

今日はこれまで。

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