人気の投稿

2011年7月9日土曜日

知の深淵に逃げ込もう

以前「歴史とは何か」というE・H・カーの本をご紹介しました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/01/blog-post_17.html

今日はその続きかも知れません。

ただそれについて語らせるのは小林秀雄です。前に書いた田中美知太郎との対談からで、その筆記ですので、小林の怒りがそのまま伝わってくるようです。
ぼくはよく考えるんだ。現代の唯物史観的な歴史家の傾向というものは、進歩したつもりで、じつは退歩している。徳川時代の古学者とか国学者の考え方のほうがずっと正しい処があると言えます。彼らにとって歴史的対象とは、ある時代の事実ではなくて、事実がその時代に経験された、その経験の意味だったのです。これは正当なことです。客観的事実自体には歴史的意味はない。その事実がどういうふうに感じられ、どういうふうに考えられていたかということが、歴史的事実である。そして、それは事実をあらわした文章にあらわれているというわけです。文章のあやにあらわれているんで、文章が記している事実には、さしたる意味はない。そう考えた。そういう事実がどういうふうに生きられたかということは、歌か物語になっているわけでしょう。だから歌を味わわなければ歴史は絶対にわからんという考えに達した。今の歴史家は歌なんて趣味の問題だと言っている。客観的事実があればいいでしょう。だから貝殻も万葉も同じことなんだ。それが科学的なんだ。物質の科学と精神の科学との間にじつに不思議な、ばかげた混同があるんじゃないですかな、考えられないような混同が。ぼくはあるように思うんですよ。

この小林を受けて、田中は客観的事実のみに拘泥することの愚を、「物的証拠というのは完全犯罪の場合と同じように、うっかりするとだまされることがある」と表現して、その時代を知るにはその時代に生きた宗教家とか、芸術家とか、そういう人の書いた書物を理解しなければならないと返し、次のように続けます。

そこらの犯罪事件の白黒を決めるだけなら、自白をあまり重んじないで、物的証拠を重んじるというやり方でもいいかもしれないが、歴史の把握はそれとはちがうと思う。文学作品や哲学の著作は誠実な一種の自己告白というものに当たるわけで、それがその時代をいちばん写しているかもしれないし、いちばん嘘のない証拠なんでしょうな。あまりそういうものの使い方を知らないですね。

ついで、小林はこんなふうに言います。
昔の歴史家は博覧強記ということをたいへん重んじたが、それにはやはり深い仔細があったのですね。それは、やはり実証的精神のあらわれなので、歴史は資料を読めば読むほど、矛盾した、容易に解釈できない相を呈して来る、そのことに堪えねばならぬという精神だな、それを単に学問的方法を欠いたことと誤解したのだ。

さて、最後にひいた「博覧強記」といえば司馬遼太郎でしょうね。かれの歴史知識の泉は底がしれない。かれはあくまでも小説家であって、歴史学者ではありませんが、歴史学者は司馬の前では平身低頭しなければならない人が多くいるのではないでしょうか。

「古事記」「日本書紀」の解釈をめぐっては、新井白石は「あれは事実ではなく、比喩である」とし、本居宣長は、「あれは事実そのものである」「神の世界のことだから人智では測れない」という態度でした。

その時に書かれた歌や文学こそが、その時代を凝縮したものであるということについては、津田左右吉が「文学にあらわれたる我が国民思想の研究」という本があります。文庫で全8巻。先日ようやくその第1巻をぱらぱらとめくり始めました。

俗世の喧騒や愚劣な政治家のことなど考えるより、こういったことをあれやこれやと考えている方がよほど健康的ですな・・・。違うかな?

今日はこれまで。またこの続きを書きます。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿