人気の投稿

2009年6月2日火曜日

西へ行く人を慕ひて東行く


 僕のプロフィールに貼り付けられている写真は、高杉晋作です。功山寺での挙兵を表した像です。第一次長州征伐時、俗倫派に牛耳られていた長州藩の実権を自らの手に取り戻すべく、下関にある功山寺で挙兵し、乾坤一擲の大勝負を仕掛けたのです。この時彼に率いられたのが、有名な「奇兵隊」です。

 彼の大勝負は見事に成功し、長州藩は幕末維新の中心として大いに名を後世に遺したわけですので、彼のこの決断がなければ、明治維新はまた違った形になっていたことでしょう。

 

 かつて、「西行」に凝っていた時期がありました。その時に以下のような文章を年賀状に書きました。


 23才で出家し、73才で没するまで、西行は一体いくつの歌を遺したことだろう。彼の歌の特徴は、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかったと僕は思っている。彼にとっては、「一首詠むたびに一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地・・・」であり、歌こそが彼の求道の形だった。常に「いかにかすべき我が心」と身悶えするような心の底を見つめていた。

   風になびく富士の煙の空に消えて

   ゆくへも知らぬわが思ひかな

 晩年西行はこんな歌を遺した。彼はこの歌を自讃歌の第一にあげていたという。この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地ではなかったか。

♦  ♦  ♦

   西へ行く人を慕ひて東行く

   心の底ぞ神や知るらむ

 西行を愛し、自らを東行と号した維新の英傑高杉晋作は、こんな歌を遺している。「動けば来電の如く発すれば風雨の如し」と碑銘に刻まれた、彼の破天荒で、何の衒いも気負いもなく、酒に酔い、三味線に唄い、そんなことのついでに驚天動地の事業をやってのけた彼の生涯を貫く心意気が、この歌に凝縮されているように思う。

♦  ♦  ♦


   人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん。


 やはり、男はこれだ!

2 件のコメント:

  1. 田村です。

    日本史の中でも明治維新の頃は、敵味方(良い方・悪い方)がころっとひっくり返るので理解が追いつかずに難渋しています。
    実はどの時点で薩摩長州が力を付けてきて、どこで官軍となるのか、そのプロセスを良く把握できていません...

    方向音痴の記憶と同じで、断片的な事件だけは分かるのですが
    (桜田門外の変、吉田松陰、安政の大獄、白虎隊、池田屋事件、無血開城...)

    どなたか勉強会で、明治維新の政治背景を取り上げてもらえると助かりますね。

    返信削除
  2. 明治維新の背景なら、スライドなしで2時間は話せますね。
    やりましょうか!

    わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば
    煙は薄し桜島山

    平野國臣

    返信削除