人気の投稿

2009年6月23日火曜日

第17回三と一の会お知らせ


各位
第17回三と一の会を7月10日(金)にちよだPF504会議室にて行います。
19時開始です。テーマは「『エッシャーのだまし絵と数学』(芸術と数学の密な繋がり)」で、
まげ店長がプレゼンターです。出欠をお知らせくださいね。

皆さんにもメールが行っていると思いますが、彼の次なる展開テーマは、軍事色ぷんぷんですね。とはいえ「軍事学」やら「地政学」やらが大学の学科として存在しないのは日本くらいなものなのですよ。「政治学」があるなら当然それを支えるものとして軍事学やら地政学やらは避けて通れないのですが、この国は未だに敗戦の亡霊に取りつかれていることが多々あると思います。そして、それこそがこの国混乱の大きな一因になっているとも。
ともかく、7月10日にお会いしましょう。

7 件のコメント:

  1. 田村です。

    太平洋戦線もヨーロッパ戦線も、基本的には補給戦でした。
    補給が先に切れた方が負けです。

    太平洋戦線で日本軍に対してアメリカが使ったのは潜水艦、
    大西洋戦線で連合軍に対してドイツが使ったのも潜水艦、
    北アフリカでロンメルが負けた原因はイギリスの潜水艦。

    輜重兵や船員は日本では格下に見られてましたが、実は一番大事な役割です。

    メーカー企業では生産管理とロジスティクスが一番大事。
    格下の役割に見られますけど。

    返信削除
  2. まげ店長さん

    皆に誤解のないよう文章を修正しますね。

    太平洋戦線戦で日本軍の補給線を切るためにアメリカが使ったのが潜水艦
     
    大西洋戦線で連合軍の補給船を切るためにドイツが使ったのが潜水艦

    ということですよね。

    洋の東西、古今を問わず、戦いは補給を制した方が勝ちですね。豊臣秀吉の九州征伐や朝鮮出兵の補給線を支えたのが石田光成の才覚であったのはよく知られた事実ですし。
    確かに、輜重兵や船員は格下に見られていましたね。
    「輜重輸卒が兵隊ならば蝶蝶蜻蛉も鳥のうち」という風に蔑まれていましたからね。
    ちなみに、28年ぶりだかにグアム島から生還した横井庄一さんはこの輜重兵でした。だから、戦後28年も経っているにも関わらず、「輜重兵のくせに」という陰口はあったそうです。

    何故でしょうね。日本軍は「戦闘」そのものが一番偉くて、それを支える補給というものには低い序列をつけてしまう。レイテ沖海戦の栗田艦隊の謎の反転も、結局は当初の作戦目的「敵輸送船団の撃滅」、つまりは敵輸送船団と刺し違えることを潔しとしない、幕僚の心理が働いていたのは間違いないですし、どうせ刺し違えるのならせめて戦艦・空母という心理が作戦目的の完全な遂行を妨げたのですよね。

    「生産管理とロジスティックス」が『一番』かどうかは分かりませんが、非常に重要だということは間違いありませんね。

    これって、日本人に特有のことかもしれませんね。

    返信削除
  3. しかし、こういうやりとりを繰り返してたら、まげ店長さんとますます「おたく」ちっくなやりとりになって、他の人は何のコメントもできなくなりますなぁ。

    でも、やりましょう。僕等の自己満足が一番で、この読者が少しでも知識と教養?を深めてくれたらいいですよね?

    返信削除
  4. 薄々気になっていはいたのですが...
    では、失速せずに(笑)。

    >ちなみに、28年ぶりだかにグアム島から生還した横井庄一さんはこの輜重兵でした。だから...

    小野田さんは陸軍中野学校出身ですよね?確か。
    上官の任務撤回命令を受けないと、帰る事に納得しなかったとか。

    返信削除
  5. とりあえず、2人で突っ走りましょう。

    そう、小野田さんは、¥横井さんの後、ルパング島からの30数年ぶりの帰還で、仰る通り当時存命だった上官からの任務解除命令を受けて、初めて鉾を治めました。小野田さんも、横井さんも私はオンタイムでこの事件を知っています、小学生でしたから。新聞の一面に、上官からの任務解除命令を直立不動の姿勢で聞いている小野田さんの姿がでかでかと出ていたのをはっきりと覚えています。

    その、小野田さん。帰国後広島の平和記念公園へ行って、「安らかに眠ってください。過ちは決してくりかえしませぬから」という碑文を見て、「これはアメリカが書いたのか?」と極めて素朴な疑問を発しています。

    横井さんは、同じく帰国後、靖国神社へ参拝した際、
    「「天 句践(こうせん)を空(むな)しゅうするなかれ 時に范蠡(はんれい)なきにしも非ず」と口ずさみました。

    当時の絶望的な世相に、自らを「越」の国の忠臣だった范蠡を重ね合わせたのでしょうか。

    返信削除
  6. 田村です。

    今月の小遣いで買った「戦時輸送船ビジュアルガイド」を読んでいます。
    WWIIで散っていった日本商船をプラモデルにして再現し、
    尚かつ解説をつけると云う物凄くマニアックな資料です。

    これを読んでいると、船舶砲兵は陸軍さんの所属だとか、海軍徴発と陸軍徴発船の違い等、今まで知ってる筈で知らなかった知識を仕入れ直しています。

    ここまで体制が傾かないと、護衛船団を組もうとしなかった大日本帝国...(海防艦の数も質も、お粗末なもんです)
    自らの身に立場を重ねながら、「何とかせんといかんだらぁ」と自らを奮い立たせています。

    返信削除
  7. 司馬遼太郎は、「明治」という国家の透徹したリアリズムが「昭和」になって全く消えうせたというようなことを言ってました。
    昭和になってからのこの国の戦争は、一言で言うなら「泥縄」これに尽きると思います。占領地からの物資補給こそが、生命線であったにも関わらず、輸送計画を見直したのが確か昭和18年、海戦1年半年後でしたね。それと、信じられない事ですが陸軍幹部候補生課程において、「対ジャングル戦」「対諸島戦」が学科となったのは同じく昭和18年ですよ!!開戦は昭和16年12月、アメリカと戦うには、当然南洋の島々、ジャングルでの戦いがメインとなるのは、当然予測できるじゃないですか。それなのに、なんということか!

    東京裁判で、この国は昭和6年から国家の総力を挙げて侵略戦争の遂行を計画したと裁かれましたが、これなどまったく事実に反するのみならず、仮にそんな計画的であった戦争ならば、もう少しまともな戦い方ができただろうと思うのは、私だけではないと思いますが。いかがでしょうか。

    返信削除