小林秀雄。
「日本における批評の文章を樹立した」と言うのが、彼を表す常套句です。僕が彼に興味を持ったのは、戦後間もない頃、この国が「一億総懺悔」などという風潮に覆われた中、
「私は馬鹿だから反省などしない。利口な奴はたんと反省するがいい」
と言い放ったということからです。
彼は非常に多くの短文を遺しています。彼にとっての畢竟の大作は「本居宣長」といえるでしょう。私は16年前にそれを購入してから、未だ読めずにいます。理由は簡単で、未だそれが読めるほど僕自身が成熟していないとおもっているからです。
彼の「無常ということ」という文章について、先日まげ店長さんのコメントに書かせてもらいましたが、これはわずか5ページ足らずの短文であるにもかかわらず、非常に考えさせられる文章でした。僕の心の琴線に触れたのです。
その中に、川端康成が語った文章として次のようなことがかかれています。
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くとしんでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」
これを受けて、小林秀雄はこんな風に書いています。
「歴史には死人だけしか現れてこない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が僕等を一種の動物であることから救うのだ。」
「上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれが現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。」
そうして、
「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。」
と続いて行くのです。
僕等は、「解釈」を通じて歴史や人間を理解しようとします。しかし、『解釈を拒絶して動じないものだけが美しい』という本居宣長が抱いた一番強い思想こそが、解釈だらけの現代には一番秘められた思想なのだと彼は言っています。「上手に思い出す」こととは、僕等が勝手に思い描く「解釈」を通じてではない、そこにある「常なるもの」、それを見ることなのでしょう。でも僕等はそれを見失っていると・・・。
これが、僕なりの理解です。
田村です。
返信削除柳田邦男だったと思うのですが、民俗学の本で「ハレとケ」についての文章を読んだ事があります。
現代の生活ではハレとケの区別が限りなく消えつつあるような気がしてなりません。
「常と無常」が「ハレとケ」とそのまま対応する訳ではありませんが、一つの文化が消えつつあるのには違いないと思います。
上田秋成の雨月物語が好きで、特に「菊花の約(ちぎり)」が気に入っています。
日常の中の「異界」が昔はこんなにもはっきりとしているのに、今では日常的にも人が消えていき「非日常」の中に住まわされている感覚がいつも消えません。
この感覚に慣れない人は、その非日常に呑み込まれていくのみか...
方向を見失わないためにも、自分に合った羅針盤が必要ですね。
田村さん
返信削除「ハレとケ」の見境いは我々の日常から間違いなくなくなっていますね。かつては、晴れの場である「座敷=客間」というものが明確に存在していましたが、今の建築様式はそんなものは一切ありませんしね。その家で一番日当たり、風通しのよい部屋を、念に何回も使わぬ座敷として、「日常」に対する「非日常性」として担保していたのが日本の伝統建築でしたが、今やその残滓すらないのではないでしょうか?
官民、貴賎の区別を問わず日本の伝統を自ら破壊して止むことのなかったのが、戦後のこの国の姿だと思います。
上田秋声、読んだことがありません。でも非常に興味を持ちました。