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2011年9月30日金曜日

絶筆・・・でもないか

10歳の娘は国語で「ごんぎつね」を習っています。

あの話から、何か教訓を見つけようというのは困難です。というよりも、それを何からでも得ようと思うのが間違っている。

本居宣長のいう「もののあはれ」とは、ただあるがままを感じることにこそ価値があるのだということ。その顰に倣っていえば、ごんを撃ってしまった兵十が、これから背負っていくであろう贖罪の意識、おそらくそれは苦しみだろうと想像できますが、それだけを感じ取れればいいのです。

おそらく、ひとは悲しみを悲しみのまま背負って生きていくことはできないが、苦しみは背負って生きていくことができる。悲しみは時が癒すが、苦しみは時が癒すことない。例えば親しい人との死別による悲しみは、その根源を辿れば「言うべきことを言えなかった」「為すべきことを為さなかった」という身悶えであり、それは苦しみではないか・・・。釈尊がとうの昔に言い表した「愛別離苦」は、まさにこの通りのことだ。

苦しみ・・・。


乃木大将の自裁に対して、「こころ」の先生は次のように言った。

乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうを思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人にとって、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。
乃木希典という克己の人だからこそ、ずっと持ちえた苦しみかも知れません。昨日の続きでいえば、誰もこの自裁を否定できないでしょう。どんな言葉を持ってそれを否定しても、それは非常に薄っぺらいものになると僕は思います。

苦しみ、痛みと置き換えてもいいが、人はすべてそれを心の中に秘めていると思う。僕の場合なら、人には決して言えぬそれがある。僕も含めて普通の人はそれを誤魔化して生きている。でもやはり心の奥底には苦しみがある。意識するしないに関わらず、皆それを感じているはず。でも、もしかしたらそれこそが他人への配慮や、優しさの原資なのではないだろうかと僕は考えている。

ほんの少しの想像力をはたらかせて、自分と同じ苦しみを持つものとして他人を見ればいいのです。問題はその想像力を持ちえるか否かということ。



昨日書いた「普通名詞でしか考えない日本人」という現象こそが、実は以前書いた「底の浅さ」や、「薄っぺらな社会が恐ろしい」の根源にあるような気が僕はしている。これ以上のことは今は書けない。ただ「何かが絶たれている」という喪失感を僕はこの国に感じざるを得ない。おそらくそれはかつてのこの国にはあったはずだと僕には確信めいたものがあるのだが、その「絶たれた」ものは何なのかうまく表現できない。でも確実にそれは「絶たれている」。

その「絶たれている」何ものかが復活し、豊かな音色を奏でるときが巡ってくるのか、それとも永久にこないのか、僕自身はその未来に絶望にも似たものを感じている・・・ということを表白して昨年10月から毎日書き続けていたこのブログの更新を、一旦はとめることにします。

今後は書きたい時に書きます。

それでは皆さまごきげんよう。

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