是非一度は縁日へ足を運ばれるとよい。
という書き出しで始まる「虫の演奏家」という小泉八雲の文章がある。いつの間にやら我が家の周りでは騒々しいくらいにその「演奏」が始まっていて、ふとその文章を思い出してそれを久々に手にとってみた。
彼の暮らした明治の時代は、縁日で籠に入れられた虫が売られていた。それがいつの頃から姿を消したのかはわからないが、「虫を売る」というのは商売として成立していた。江戸の市中にもその行商がみられたし、それが明治までは確実に存在していた。彼によれば、最も高価な金額で取引される時期に、最も高額な虫は「キリギリス」で一匹12~15銭。最も安い「鈴虫」で3.5銭から4銭。
彼はこんな風にいう。
だが、虫はその出す音色のため珍重されているとわかったとたんきっとびっくりするだろう。日本人のようにたいそう洗練されてまた芸術的な国民の美的生活の上で、この虫たちが西洋文明でつぐみや孔雀やナイチンゲール、そしてカナリヤが占める地位にひけをとらない地位を占めている、と語り聞かせてわかったもらうのには骨が折れる。千年の歴史を持つ文学が、ものめずらしく繊細な美充ちあふれる文学が、このはかない命の虫という題から成り立っている、などとはどんな外国人に想像できるだろうか。
虫の声一つあれば優美で繊細な空想を次々に呼びおこすことが出来る国民から、たしかに私たち西洋人は学ぶべきものがある。機械の分野ではそういった国民の師であることを、全て人工的に醜く変えてしまうことでは教師であることを、私たちは誇ってよいだろう。だが、自然を知るということにかけては、大地のよろこびと美とを感じるということにかけては、いにしえのギリシャ人のごとく、日本人は私たちをはるかにしのいでいる。しかし、西洋人が驚いて後悔しながら自分たちが破壊したものの魅力をわかり始めるのは、今日明日のことではなく、先の見えない猪突猛進的な産業化が日本の人々の楽園を駄目にしてしまったとき、つまり美のかわりに実用的なもの、月並みなもの、全く醜悪なもの、こういったものをいたるところで用いときのことになるのだろう。
「虫よ虫ないて因果が尽くるなら」
今日はこれまで。
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