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2011年9月18日日曜日

仕えるということ


「人の上に立ちたいか」

「人に使われたいか」

という二元論をよく聞きますね。これを訊かれた場合には、前者と応えないと「覇気のないやつ」と思われてしまいそうな、そんな恐れを抱いてしまうのではないでしょうか。例えば、就職試験でその会社で役職のあるえらい人が面接官であるとしましょう。そうであるなら、こんな質問を投げかけるだけで、その人は立派なリーダーではないという風にじますね。

人の上につというのは、たいていの場合結果にすぎません。 その人がその組織に尽くし、よい結果を残したことが認められたことの証です。

一方、使われるというのはその過程でありますが、これもたいていの場合、そういう意識でいる人は前段のような良い結果を残すことにはならないのでしょうか。

第三の道があることを忘れている。

「仕える」ということです。これは表面だけみれば「使われている」というのと同じにしか見えないかもしれません。しかし、実は大きな差があります。これは能動的で、使われるという受身とは全く異なります。

上司に仕える。先輩に仕えるなどなど、人に仕えるには何かしらの「無私」の精神が必要です。そしてこの「無私」というものこそ、リーダーが持たなければならない必須の「徳」であると考えます。

日経の「私の履歴書」をみるまでもなく、世に名を為したリーダーというのは、皆間違いなく良き部下であったはずです。「仕えた」からです。

人や仕事を管理する能力など本来稀有なもので、まず徳がなければならない。徳など、若いころから自分を無にして他者や仕事に奉仕できるように自分を訓練してきた人にはじめてできるもので、年功序列がその徳をつくるものではない。

これは司馬遼太郎の文章ですが、まさしくこの通りといえるでしょうね。年功序列がその「徳」をつくるものではないのは当然ですし、いわんや流行のハウツー本を読んだり、講習を受けてつくれるものではない。皆何か多きな錯覚をしているのではないか。

今日はこれまで。

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