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2011年9月17日土曜日

不確かな「生」と確実なそれ

人生にはいろんなことがある、というか起こるものです。自分だけではなく、自分とかかわりのある人間でさえも、それは当然のことなのですが、どうも人間は自分だけが特別だという疎外感や、逆にいいことが起こればそれはそれで、自分を特別視しがちなものです。

「生」ほど不確かなものはなく、「死」ほど確実なものはないのですが、そんなことを僕らは日常、微塵も考えることはありません。それはそれだけ日常が満ち足りているということの証でもあります。

ただ、それが何かの拍子で狂ってしまうと、「生」というものの危うさを再認識せざるを得なくなるのではないでしょうか。

自分への自信や、他人との関わり合いの安心感が薄れたとき、僕らは返るべきよすがとして、「歴史」しかないのではないかと思うのです。

「歴史」は個人の「生」と「死」が完結しています。僕らの「生」が不確かに揺らいだ時、寄る辺となる精神的支柱は、やはり歴史の中にいる人物の生と死の物語から汲み取るしかないのではないか・・・。

信仰へ傾くこともあるでしょう。しかしながら、「信仰」というものすらも過去のある「生」から紡ぎだされたものであり、やはり歴史への回帰と同じになると思います。

僕がここでいう「歴史」とは、過去から読み継がれている小説やらも含みます。

生きている人間は人間になりかけの不完全なもの

とは、川端康成が小林秀雄に語ったものですが、何だか最近の僕はこの言葉が非常にわかるような気がしています。なぜなら、「死」を迎えない限りは「生」は完結しないからです。そして、歴史にはそれがあるからです。

確か、ラテン語「メメント・モリ」(死を想え)とは、おそらくこういうことも言っているのだと思います。

今日はこれまで。

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