人気の投稿

2011年9月29日木曜日

普通名詞でしか考えない日本人

最近よく思うことを題名にしました。

「日本人というのは、普通名詞でしか物事を考えないのではないか」

という疑念があるからです。あくまでも世の中に流通する論調とか、言葉の使い方の意味です。どういうことかと言うと、いくつか例を挙げましょう。


「嘘をついてはいけません」

親や先生はこどもにこう教えるはずです。一般名詞としての「嘘」は、いいか悪いかを問われれば、僕も「悪い」といいます。ただ、実際のところ僕らの社会の中で一般名詞そのままに判断することはまずありません。「嘘も方便」という言葉もありますが、社会の中では「ついてもいい嘘」というのが存在するのを皆わかっているはずです。この場合は、普通名詞のそれではなく、固有名詞としての嘘といっていいでしょう。

「戦争に賛成しますか反対しますか?」

こんな馬鹿げた質問も、よく目や耳にします。あくまでも推測ですが、日本以外でこんな質問はまず皆無でしょう。そこに必ず「イラク戦争に~」というような固有名詞として質問されるからです。ところが、日本ではこう質問されて、人々は皆一様に「反対です」と応えます。一般名詞で考えれば当然のことです。

僕ならば回答は留保します。固有名詞で考えるからです。一般名詞としての戦争ならば僕も即座に反対します。当たり前のこと。しかし、一般名詞としてのそれはこの世の中にはないですから、固有のものとして考えざるを得ない。「祖国防衛戦争」というものもあり、それすらも否定するのは偽善以外のなにものでない。したがって、そういう質問が馬鹿げているといったのです。

極論を言えば、「殺人を認めるか否か」ということでもいいです。これについては、一般名詞としてのそれですら肯定するひとはいないでしょう。しかしながら、裁判ではその背景や動機を探ります。これは要するに一般名詞から固有名詞化させているということでしょうね。そうして量刑の基準とするわけです。

「自殺がいいか悪いか」

こう訊かれて僕は回答を留保します。以前ここで紹介した江藤淳の自裁(http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/12/blog-post_14.html)を、誰がどんな資格で「よくない」といえるのか。したがって、肯定せざるを得ないそれもあると僕は思うからです。


一般名詞で考えるというのは、想像力の欠如ということです。人間同士の付き合いで考えれば、他人の心情を忖度できないということになります。そんな人間に重きをおきますか?付き合いたくもないでしょう?

これらの例を挙げるまでなく、世の中に一般名詞で考えられる事象などないのです。

しかるに、どうでしょう?世の中はそんなワンフレーズが横行し、みなそれをもってあ~だこ~だ言っている始末。アホの所業です。

えらそうに社会の正義をきどる新聞などのマスコミは、「開国か鎖国か」「自由貿易か保護貿易か」と幼児のような世界観、二項対立で記事を書く・・・。これも要するに普通名詞で物事を考えているということ。偏差値の高い大学を出て、難しいであろう入社試験をパスした人間の書く文章とは僕には到底思えない。



たった一度戦争に負けて、戦争反対の思考停止状態になり、今度は一度の原発事故で「原子力反対」の大合唱になる・・・。なんと子供っぽい国なのか。

維新後の廃仏毀釈によって、今まで拝んでいた対象である仏像を風呂の薪代わりにする節操のない変わり身の早さは、その約80年後には、鬼畜米英だったはずのアメリカに跪くということに再び発揮される。

そして、それは未だに続いているではないか。


今日はこれまで。








0 件のコメント:

コメントを投稿