歴史は学ぶものだろうか?
巷間、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの言葉が知られているが、最近はその言葉にも違和感が出てきている。歴史を教訓としてそこから学ぶということは、それを教訓として認知できる後世の人間だからこそなしえることで、いわゆる「高み」に立った立場からは逃れられない。それでは、その時代に苦悩呻吟し、その末に下したかもしれないぎりぎりの決断のその本当の意味を知ったことにはならない。
例えば、この国の大東亜戦争への歩みを「軍国主義」とか「帝国主義」とか断罪することは易しい。だが、それ以外に他にどのような選択肢があったというのだろうか。そこへ思いを致さないということは、人を裁く裁判官ですらなさないこと。裁判官でさえその動機は斟酌するだろう。なのに、それすらなさないということは、自分が「神」にでもなったつもりか?それほどの傲慢さがあると僕は思っている。
後付で考えるのは簡単だ。しかし、それでは本当の歴史への親しみとはならない。小林秀雄は「歴史は鏡である」といった。至言である。鏡であるならば、そこに映し出されたものをみるしかないのだ。そこには後付の知恵も、学ぼうとする姿勢もいらない。
「魂の震えるような共感」(福田和也の言葉)があればいい。
ただそれだけでいいのだ。
今日はこれまで。
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