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2011年8月14日日曜日

66回目の終戦記念日を思う その6

なんともいいようがない。

本日の読売新聞の文化欄に評者として朝吹真理子という今年の芥川賞作家の筆になる文章があった。1984年生まれということなので、僕より20才も下の女性・・・。

「コレクション戦争×文学19 ヒロシマ・ナガサキ」の書評であり、「『核』の惨禍すべて現在形」と見出しがつけられていた。

読後感は最悪。何の価値もない。

彼女は、ヒロシマ・ナガサキの惨禍と今回の原発事故を見事に混同し、こんなことをその終わりに書いている。

人類に自滅を選ばない意志があるのであれば、もうこれ以上、原子力エネルギーを使い続けるべきではない。この最悪の事故を契機に、原子力開発は永遠に終わってほしい。全54基が止まり、二度と稼動しないことを強く望む。
単なる一作家の意見なので、別にどうということもないのだが、彼女にぜひとも聞いてみたいのは、彼女が2歳のときに起こったチェルノブイリ原発の事故について・・・。長じて勉強する機会はあったと思うのだが、その時に同様な意見を持たなかったのか?「原子力」というものの危険性を強調するのならば、旧ソ連で起こった事故を知った時点で同様の感慨を持たねばおかしい。


あれは他人事。今度は自国の事。そう考えたのならわかる。だが、彼女の文章からは人類を勝手に代表したかのような傲慢さはあるが、そのエゴについての後ろめたさはまったくない。

なぜなら、彼女がいう、自身の過去4回にわたる原爆資料館への訪問によって得られたものが表層的で、「3.11」以後に初めて現在系であることを知ったということは、旧ソ連でのそれに何の感慨も持たなかったことを表しているからだ。

言っておくが、僕はそのエゴを責め立てるつもりはない。神様でもない限り、当然の持ちえる感情だからだ。「人命尊重」とはいいつつも、赤の他人の命が損なわれるより、自らの飼い犬の死の方が悲しいのが自然な感情だ・・・。でも誰もそれを口にしない。

作家のくせに、そんな薄っぺらいヒューマニズムから抜けきれないのか?

冒頭のこの文章も噴飯ものだ。

放射性物質であるプルトニム239の半減期が2万4000年であると知っても実感がわかなかった。把握できる時間を超えていると思った。人間の時間感覚と大きくずれたそれらの物質をつくりだしてみたいと思う科学者の興奮や欲望を、私は完全に否定することはできないのだが、ただ、それを手にしたら人間が何を起こすか、という人間の心への想像力さえ働いていれば、実際に使おうとは到底思えなかっただろうと信じている。

プルトニウムという元素を「つくりだし」たと書いている彼女の間違いは責めない。あまりにも表層的な「人間」というもの、「社会」というものの把握についてが噴飯ものなのだ。

想像できない、把握できないほどのものに満ち溢れているのが、この社会である。放射能の半減期を持ち出すまでもなく、彼女は最低限10兆円が必要と言われる震災復興費用が「想像」できているのかどうか。1日に100万円、365日使い続けてもそれは僅かに3.65億円にしかならず、100年使い続けてようやく365億円になるに過ぎない。僕なんかこれだけで想像をはるかに超える。1万年使い続けて、やっと3.65兆円になるだけ。想像できないほどに巨額なのかが、わかればいいのだ。

想像できないことだらけなのがこの社会でしょ・・・。


言うまでもなく、「3.11」による原発の事故原因は「天災」にある。もちろん、計画段階から事故後の処理にあたっての「人災」的側面は否定できないにしても、それは原因の「主」ではない。しかるに「ヒロシマ・ナガサキ」は「天災」ではないのだ。あれは戦争被害である。それも、明白な戦争犯罪行為の被害なのである。なぜそれらを混同するのか?

戦争までをもあたかも「天災」として、その運命を享受するような日本人の心性を僕は理解できるが、それはあくまでも実際の被害に遭われた人々がそう感じるのならという条件付きで、部外者がそんなことを言うのは非礼であろう。でも、国をあげてそう仕向けているとしか思えない。

原爆ドームを世界遺産に申請したとき、アメリカは猛反対した。当然である。自国の戦争犯罪が世界遺産になるなど、到底承服できるものではないからだ。日本への対抗措置もとった。従軍慰安婦にかかわった旧軍人の入国を禁じるというわけのわからないもの・・・。その人名は公表せずじまいだった。アメリカのその反応は、大方の日本人にとっては理解できなかったに違いない。日本人は原爆の問題を人類の問題としてすり替えているからだ。



彼女は日本だけの原発稼動が停止すればいいとして、他国の言及はしていない。「人類」として云々といいながらも、このエゴイズムにも目をつむる・・・。しかし、「人類」という言葉は空語である。そんなものの実体も具体性もない。そんな言葉を、その専門家たる作家が使ってどうする、という寂しい感情から僕は離れることができない。

言葉使いに関するあまりにも悲しい惨状・・・。

今日はこれまで。


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