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2011年8月3日水曜日

歴史は鏡(昨日の続き)

昨日、言いたかったことは小林秀雄はこんな風に語っています。ちょっと長いけど実に味わい深い言葉なのでご紹介したい。



歴史教育の方法というものが今日やかましい問題になっているようだが、ぼくは、根本のところでは、これはじつに当たり前な、変わらないものでなければならぬと考えているのです。歴史は鏡だという考えで十分だと思うのです。鏡というのは、ただお手本という意味ではないのですね。こうやって生きているということがどういうことであるか、ということをつらつら考えてみることは難しい、現在に生きているだけでは、その意味合いをつかむことは難しい。だから歴史という鏡がいる。そういう意味があるのでしょう。鏡には歴史の限界なぞが映るのでない。人の一生が映るのです。生れて苦しんで死んだ人の一生という、ある完結した実体が移るのです。それを見て、こうやっていま生きていて、やがて死ぬという妙なまわり合わせが得心できる。それが、鏡という意味でしょう。そこに歴史学というものの目的があるんだろうと思うんだよ。だからぼくが歴史学を科学として認めないという理由はそこにあるんだよ。それを今の歴史教育というものがいちばん忘れている根本だと思うんだな。歴史を科学的に極めていけば形而上学的問題に触れる。その触れざるを得ないというところが大事なんだと思う。過去の清算という現代思想のうちに歴史家は巻きこまれているが、歴史家はそういう不自然な態度をとることが、どうしても難しくなってくると思います。歴史は清算を要するものではない、生き返らす必要のあるものだ。過去を否定したり、侮蔑したりして、歴史をやろうということが無理な話だ。ふつうに過去を思い出すという経験は、過去が統一された、全体として思い浮かぶという経験でしょう。過去から取捨選択するから、過去は有効に生き返るのでない。あったがままが思い出されれば、それは生き返るのです。人為的な技巧を捨ててみるからこそ、生き返ってくるのです。それが本当の実証主義でしょう。現代の歴史家の実証主義は、不徹底で、びくびくしたものだ。なぜびくびくしてるんだろう。将来の文化のために?私にはわからない。


これは、以前触れた田中美知太郎との対談(1960年)からです。

今日はこれまで。

出所:「プラトンに学ぶー田中美知太郎対話集」

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