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2011年2月12日土曜日

脚下照顧(きゃっかしょうこ)

これは禅の言葉です。

まず自らの脚下をみて、反省すべしといったところでしょうか。これを矩とすべく、娘には幼い頃から靴を揃えさせることを躾ました。そういえば、それを守らず僕に叱られることがなくなったな・・・。もちろん、僕自身もやっています。

「出船の精神」

とかいう言葉もあります。つまり、すぐに出港できるように、舳先を外洋に向けて停泊させること、危機管理になるのかな、そういう心構えを表した言葉らしいですが、玄関で靴を揃えるのも見方を変えると同じ事ですね。





道は即ち高し、美し、約なり、近なり。人徒(ただ)其の高く且つ美しきを見て以て及ぶ可からずと為し、而も其の約にして且つ近、甚だ親しむ可きことを知らざるなり。
(「講孟劄記」吉田松陰)

下田でのアメリカ渡海に失敗して捕えられ、故郷萩の野山獄にて、獄内の囚人へ行った「孟子」の講義録(だから講孟)の最初に述べられている言葉です。訳すと以下のようになります。

人の人たる道は、高く美しく、また簡約で身近なものである。しかるに人々は、ただ道の高くかつ美しい面だけを見て、初めから自分にはとても及びがたいものであると思い、一面において道が簡約でかつ身近な、はなはだ親しみやすいものであるということを知らないのである。


 
 「道」という概念は、孔子や孟子にある如く、中国からの外来思想です。しかし、日本ではそれをさまざまなものとくっつけたことに大きな特徴があります。「剣道」「柔道」「茶道」等々・・・。おそらくそれがくっつけられた最初は「歌道」だと思います。10世紀、平安朝の頃だと思います。次いで有名な「風姿花伝」の「芸道」ですね。それらの特徴は、日常を律するものを課していることといえます。

「道とは何か」と問われて、明確な即答は出来ないけれども、その言葉が表しているものはイメージできる人は多いと思いますが、「道」と言う言葉に込められているのは、人格の陶冶だとか高次の精神性の獲得だとかですね。それを目指した実践が「行」であり、その総体というか、ありようを「道」というのだろうと思います。

とすると、ちょっと前に書いた後かたづけをするプロサッカー選手にも、遠く平安の頃から続いている心性があるとも考えられますね。


「道は脚下にあり」という言葉もありますが、要するに日常をおろそかにしてはいけないということでしょう。ちょっとずれますが、アメリカの陸軍士官学校にも「悪魔は細部に宿る」という言葉があるそうで、だからこそ、日常の所作や身につける服装、靴の磨き方等の徹底的な躾が行われるのだそうです。これも同じようなことをいっているのかも知れませんね。ただ、日本の場合は、日常の所作に宗教的なものを持ちこみ、それを「型」にまで昇華させたといえるかも知れません。

今日はこれまで。







 




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