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2011年2月22日火曜日

磯部浅一という男

今日は2.26事件の側面についてです。

タイトルの男は、同事件の首謀者の一人で牽引役ともいえる人間です。真からの革命児とも言えるでしょう。彼だけは他の将校と違い、軍人としての思考枠を飛び出していました。彼は、他の同志将校より1年遅れて処刑されたため、その間獄中にあって書かれた手記が、彼に好意を寄せる看守らの尽力によって外部に持ち出されました。後に「行動記」「獄中日記」「獄中手記」と名付けられた膨大なモノです。「ニ・ニ六事件獄中手記・遺書」というA5版の本で160頁以上あるほどです。

彼らの目的が果たされぬやも知れぬという空気が立ち込めて来た28日、磯部は「おい、これから参謀本部を襲撃しよう」と他の同志に提案します。軍幕僚が策動して、彼らの挙を葬り去ろうとしていたからです。もちろん、他の同志の賛成を得られるはずがありません。磯部以外は、そんなことを考えることすらなかったと思います。だから、おそらくびっくりしたと思います。そして、こう思ったに違いありません。

「そこまでやったらおしまいだ」

と。これが磯部以外の将校たちの限界でした。彼らは、あくまでも軍の一員として兵を率いて「君側の奸」を斬ったのです。その同じ「軍」を襲撃することなど、露ほども思い至らなかったと思います。ただ、ひとり磯部だけは目的完遂のためにはどんな手段でもとるといういわゆる革命の鉄則を受け入れることが出来たわけです。

後の裁判過程でも、磯部は軍上層部を反乱幇助の罪で告発しています。これは、同志の一人安藤輝三によって「磯部、そんなに軍を仇にすることはやめろ!」と真剣に食ってかかられます。


何故でしょう?磯部だけは何故「軍人」の思考枠を飛び出す事ができたのでしょうか?

磯部という人間の哀しさがそこにあると僕は感じている。他の同志将校が、中流以上の家庭で育っているのに対して、磯部のみは極貧の家庭で生れた人間でした。小学校卒業後、上級学校への進学の道筋をつけてくれたのは、磯部の優秀な頭脳を惜しんだ地元の篤志家でした。彼は、処刑の数日前に面会に来た義理の弟にこう言うのです。

しかし、同志の中で俺ほど貧乏の家に生まれたものはあるまい。色々苦労はしたが、貧乏人の心持は同志の内で俺が一番知っているので、貧乏人を助けたいが為に今まで闘ってきたが、貧乏人の方で俺たちが思うほど言う事を聞かない。それだから何時まで経っても貧乏人は苦労しているのだ。俺も大陸軍を相手にして先を土俵際まで一時は追いつめたから本望だ。お前達も余りメソメソするな。


おそらく磯部の心の奥底には階級間格差に向けられた「妬み」「怨み」があったと思うのです。生れた境遇によるものでしょう。いい悪いではありません。それと、彼には貧しい者はつねに正しいというような、極めて偏った考えがあったと思います。だから、「貧しい者=正直者』が馬鹿を見る世の中は、それだけで「不正」たりえたのだと思います。子どもっぽい考え方だとは思います。

ただ、磯部が「アカ」とはならなかったのは、「天皇」に向けられた絶大な信頼感があったからだと思います。

「天皇」というものに対して向けられたこの思いは、一人磯部のみならず、他の同志将校らもひとしく共有していたものでした。そして、それは彼らだけの専有感情ではなくひろく当時の国民の大多数をも捉えていたものだと思います。

この世の中は、天皇が糺してくれる。そう信じていたからこそ、それを阻害している側近を斬ったのです。つまり、彼らにとってはそれはあくまでも天皇への忠義と同じ事でした。


しかし、彼らは天皇に弓を引いた逆賊として裁かれるのですから、多くの将校が怨みの言葉を遺書に遺すわけです。裁いた軍に対して。


しかし、ひとり磯部のみは獄中において天皇を叱責するのです。

「天皇陛下、何と云ふ御失政でありますすか。何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」


今日はこれまで。

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