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2011年2月6日日曜日

日本的、あまりに日本的な・・・

 以前、「聖」であるべき場所に犬連れが多いということを、「聖と俗の曖昧さ」ということでここに書きました。

http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/01/blog-post.html

今日はまたその辺りのことを書こうと思います。

「トイレの神様」とかいう歌が売れている(た?)ようです。娘もよく口ずさんでいます。おばあちゃんが「トイレには神様がいる」と教えてくれて、一生懸命掃除するといいことがあるよ、というようなことでしたよね、この歌・・・。僕の姉も、妊娠した時に「頭のいい子が生れてくる」とか言ってトイレ掃除をよくしてました。何とも不思議な物言いですね、迷信といえば迷信ですが。


ザッケローニ監督が「日本選手には感心した」とイタリヤ紙のインタビューで答えてました。

「彼らは自分で荷物を持ち、練習後の後片付けまでする」「こんな選手はみたことがない」と。

さてさて、この2つのことは何を表しているかというと、これは聖と俗の曖昧さをそのまま表していると僕は考えます。日常における「宗教」的なものとでもいいましょうか。

仏教における実践を僕等は「修行」と言う言葉で表します。「行」を「修」めるということですね。もともと「行」は、その仏教教団における「戒律」を実践することでした。「戒律」というのは「戒=(自律的に引き受ける生活規範)」と「律=(教団を維持するための自治体系)」を表しています。日本では、インドや中国におけるその厳しさはありませんでした。

その代りに、「俗」である「日常」を重視したのです。日常に「行」を持ちこんだのです。これがいつ頃からなのかは僕には正確なことは言えません。

鈴木正三という人がいます。徳川家康・秀忠に仕えた武士です。彼は42歳の時に出家して禅の坊主になります。彼は「職分仏行説」というのを唱え、それぞれが日ごろの職分を務めあげることがそのまま行であるということを唱えたわけです。これは、日常生活において自らを律することが行であると説いたわけですね。

トイレ掃除に「そこに神様がいる」からとか、道具を自分で持ち、自ら後片付けをするプロサッカー選手の心性にも、おそらくそういうものが流れているのでしょうね。そうして、「行」じるということは自らの人格とか、精神性を高めるということにその目的があることを、僕等は言葉にせずとも理解している・・・、そんな気がします。

これは日本人以外にはまったく理解できないことだと思います。簡単に迷信といって捨ててはいけない日本人の宗教観、聖と俗の曖昧な境界をよく表していると思います。

日本で職人というのが尊ばれるのも、その一因にはこのようなことがあると思います。


今日はこれまで。

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