沖縄というと、必ず出てくるのがかつての戦争の傷跡。
いわく、「いかにひどい事を日本軍はしたか」「自決の強要」等など。
この問題には本日は深く立ち入りませんが、ひとつだけ言わせてもらうと、
なんとか島での、島民に対する集団自殺の強要は、「日本軍の悪さ」の象徴として、
教科書にまで載っているようですが、これは裁判になっています。
つまり、強要したとされる部隊、部隊長が「そのような事実はない」と、
嘘っぱちを取り消せということです。真実は那辺にあるのか?
この国のマスコミは一切そういう動きには口を閉ざしますね。
さて、今日はタイトル通り「最後の沖縄県知事」の話です。
その知事の名前は島田叡(あきら)と言う人で、昭和20年1月に辞令がでます。
それまでは大阪府の内務部長だったそうです。沖縄への米軍上陸は必至ということは
皆、わかっていました。沖縄への米軍上陸は昭和20年4月1日です。
彼は、まわりに「行くな」「死ぬぞ」と言われても、こういったそうです。
「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」
そうして、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ
そうです(引用wikipedia)。
彼の最後は不明です。
彼の前任知事は、在職1年半の間、三分の一もの間「打合せ」として称して
東京へ主張へ出ており、そこで「早く知事を交代させてくれ」という猛烈な陳情を
多方面に仕掛けていたようです。
この両名、どちらも東京帝国大学出のエリートです。
しかし、この両者の落差は一体どこからくるのでしょうか?
あっさり言わせてもらえば「人間の質」としか言いようがありません。
沖縄戦は、本土決戦の捨て石となった悲劇です。
軍人の戦死者よりも、県民の死者の方が多いということもあります。
作戦至上主義が多くの県民を惨禍にさらしたのは事実でしょう。
しかし、それをいまさらあげつらって一体どうなるというのか?
それよりも、自らの命をかけてまで「公」に尽くした、この県知事のような人を
知ってもらう方が、比較できないほど意味あることだと思うのだが。
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