三分の侠気と一点の素心 菜根譚から名前をとりました。 リベラルアーツ(一般教養)をテーマに月に一度、有志が集まり 勉強会&飲み会を行っています。 現在メンバー30人。常時メンバー募集中です。コメント歓迎します。
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今日は、毎日新聞4月7日の「余禄」からご紹介したいと思います。 我々文芸家にとって第一の打撃は、文芸ということが生死存亡の境においては、骨董書画などと同じように、無用の贅沢品であることを、マザマザと知ったことである。 これは、関東大震災で被災して、寝食に不自由した菊池...
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日本事物詩は、日本語という言語の研究者でもあったB.H.チェンバレンという英国人が著した本です。彼はイギリスはポーツマスの生れであり、偶然にも僕が住んでいた町です。住んでいた当時は彼の存在を知りませんでした。もし、知っていたらと思うと残念でなりません。 彼は十数カ...
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昭和7年(1932)の5月15日。 今から79年前の昨日は、ご存じのとおり5・15事件の起きた日でした。前に、同事件に関しては書きました。 http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/11/blog-post_13.html あの事件の処理...
2009年6月28日日曜日
2009年6月23日火曜日
第17回三と一の会お知らせ

各位
無常ということ

小林秀雄。
2009年6月17日水曜日
白河以北一山百文

福島にきています。
2009年6月12日金曜日
かくも救いなき・・・

2009年6月2日火曜日
西へ行く人を慕ひて東行く
僕のプロフィールに貼り付けられている写真は、高杉晋作です。功山寺での挙兵を表した像です。第一次長州征伐時、俗倫派に牛耳られていた長州藩の実権を自らの手に取り戻すべく、下関にある功山寺で挙兵し、乾坤一擲の大勝負を仕掛けたのです。この時彼に率いられたのが、有名な「奇兵隊」です。
彼の大勝負は見事に成功し、長州藩は幕末維新の中心として大いに名を後世に遺したわけですので、彼のこの決断がなければ、明治維新はまた違った形になっていたことでしょう。
かつて、「西行」に凝っていた時期がありました。その時に以下のような文章を年賀状に書きました。
23才で出家し、73才で没するまで、西行は一体いくつの歌を遺したことだろう。彼の歌の特徴は、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかったと僕は思っている。彼にとっては、「一首詠むたびに一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地・・・」であり、歌こそが彼の求道の形だった。常に「いかにかすべき我が心」と身悶えするような心の底を見つめていた。
風になびく富士の煙の空に消えて
ゆくへも知らぬわが思ひかな
晩年西行はこんな歌を遺した。彼はこの歌を自讃歌の第一にあげていたという。この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地ではなかったか。
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西へ行く人を慕ひて東行く
心の底ぞ神や知るらむ
西行を愛し、自らを東行と号した維新の英傑高杉晋作は、こんな歌を遺している。「動けば来電の如く発すれば風雨の如し」と碑銘に刻まれた、彼の破天荒で、何の衒いも気負いもなく、酒に酔い、三味線に唄い、そんなことのついでに驚天動地の事業をやってのけた彼の生涯を貫く心意気が、この歌に凝縮されているように思う。
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人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん。
やはり、男はこれだ!
2009年6月1日月曜日
文殊の知恵

5月26日に会のメンバー有志、8名で集まりました。