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2010年8月30日月曜日

第30回終了

 第30回が先週26日に終了しました。
 
 5月に「226」について話して以来、久々に出席して話してきました。
僕にとってはかなり思い入れのあるテーマなので熱が入りましたよ。


この国の今の在りように多大な影響を与えてしまっている「東京裁判史観」なるものの欺瞞と、半世紀以上にわたってそれに束縛されてしまっているこの国のでたらめさが少しでもわかって頂けたら幸いです。


 物事をきちんと仕分けすればわかる事なのですが、「戦争」というとどうもそれが出来なくなるようです。講義の中でも話しましたが、「アンネの日記」という、ユダヤ人少女の迫害の物語が反戦の文脈の中で語られることがいかにおかしいことか、もう一度説明します。


ナチスドイツはユダヤ人を計画的に抹殺しようとし、実際にそれを行いました。第二次大戦中にそれが最も大々的に行われました。これは戦時下において行われた「殺人行為」であり、「戦争」とは一切関係ありません。ですから、それが「反戦」の文脈の中で語られることはおかしいのではないかというのが僕の主張です。


 それともうひとつ。根元的なことですが「戦争(=争い)」は絶対になくならないということについてです。政治討論番組を見て下さい。双方が自らの主張を言いあうのみで、いつまでたっても平行線でしょう?その主張において絶対にわかり合う事はないです。そうなった時、「討論は無用」と当然なりますね。討論が無用となった時、両者の関係は「無視」するか、もう一つは肉体言語ともいうべき「腕力」の行使という二つの選択肢しかありません。それを実際に行使するかどうかについては、相手に全て任されてしまいます。ですから、可能性としての「戦争=争い」は絶対に自己と他者の間に残るのです。僕のいう事は、こう云う事です。


 この国には「平和教育」とかいう言葉が普通に使われていますが、それは一体何のことなのか・・・。その反対は「戦争教育」?それも意味がわかりません。


 
 どんな「殺人行為」でも、結果だけでなく必ずその行為の原因となった事がらは必ず明らかにされます。そして、その原因(=動機)によって、情状酌量の場合もあります。これが不当だという人はいないでしょう。それが、なぜ過去のこの国の行為だけは、その原因を明らかにしようともせず、一方的に悪かったと言わされることを不当だと言わないのでしょう?


その状態について何とも思わないのでしょう?


それが僕には不思議でたまらないのです。








 
 


 

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