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2009年7月28日火曜日

坂本龍馬

今日は高知に来ています。
「竜馬がゆく」を読んだ後の魂が震えるような感動は未だに忘れられません。
司馬遼太郎はあとがきにこう書いています。

「この若者の場合、天がこの国の混乱を鎮めるためにこの世に遣わし、その役割を終えた途端に天に召し上げたとしか思えない」

彼は確か33歳の誕生日11月15日に暗殺されています。暗殺犯は未だに謎が多く、特定できていないようですね。薩摩藩が後ろで糸を引いていたとの説もありますね。龍馬は戦争を必要なかったと思っていましたしね。徳川慶喜が大政奉還したときに、徳川慶喜に対して涙したと言われてます。彼は自分が商売(貿易)しやすい世の中になればそれでいいと思っていました。一方の薩摩は振り上げた拳の下ろし先を何としても見つけたかった。何としても戦争を欲した薩摩にとってみれば、龍馬は眼の上のたんこぶだったんですね。そう考えると、「龍馬暗殺の背後には薩摩藩がいた」と言われても納得してしまいます。「さもありなん」と・・・。

龍馬は大政奉還の後、「船中八策」を書き上げ、薩摩藩邸で西郷隆盛に新政府の青写真を示します。
その中に彼自身の名前のない事を訝った西郷の、「おはんの名前がみあたらんど?」との言葉に

「わしは役人にはならん」
「じゃ、何をすっど?」
「世界の海援隊でもやりますかいのう」

との会話がなされたようですね。
その場にいた陸奥宗光が書き記しています。

僕はこの下りが「竜馬がゆく」の中で一番好きな個所です。これぞ「坂本龍馬」ですね!



2009年7月27日月曜日

第18回三と一の会お知らせ

メンバー各位

第18回三と一の会を8月7日(金)にちよだプラットフォームにて19時より行います。
場所は地下のミーティングルームとなります。

久しぶりに私がプレゼンターを務めたいと思います。テーマは「226」!
このテーマは、私が3年ほど前からずっと研究してきたもので、、話すとなったら全10回あっても足りないのですが、とりあえずその1として、皆が知らない事件の一断面をご紹介したいと思います。

この写真は、平成元年の映画「226」です(確か松竹で、監督は五社英雄)。史実的には「?」というか、でたらめもありますが 雰囲気はよく伝えていると思います。

それでは、当日お会いしましょう!



2009年7月23日木曜日

もういっちょ、鹿児島ネタ

西南戦争時に官軍で組織された抜刀隊を讃えた歌です。


吾は官軍わが敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従ふつはものは 共に剽悍決死の士
鬼神に恥ぢぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起せし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべし


この作詞は東京帝国大学教授だった外山正一。 作曲は陸軍軍楽隊教師として招いていた仏人、 シャルル・ルルーであった。初演は明治18年、 鹿鳴館においてである。


「西洋にては戦の時慷概激烈なる歌を謡ひて士気を励ますことあり。即ち仏人の革命の時「マルセイエーズ」と云へる最(い)と激烈なる歌を謡ひて進撃し、普仏戦争の時普人の「ウオッチメン、オン、ゼ、ライン」と云へる歌を謡ひて愛国心を励ませし如き皆此類なり。左の抜刀隊の詩は、即ち此例に倣ひたるものなり」

作詞者外山正一はこう言っている。

これは作詞作曲とも「軍歌」を作ろうという意図を以て初めて作られた軍歌なのである。



この曲は短調から始まり、途中長調へと転じる。 (長調へ転じたところに歌詞がはいる)
愛国心を鼓舞するはずのこの歌が何故か哀しい調べに聞こえる。


前を望めば剣なり 右も左もみな剣
剣の山に登るのは 未来のことと聞きつるに
此の世に於て目のあたり 剣の山に登らんは
我が身のなせる罪業を 滅ぼすために非ずして
族を征伐するがため 剣の山も何のその
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


この歌詞など、ほとんど薩摩に肩入れしたものとしか 思えない。桐野や篠原や貴島らの奮戦ぶりを讃えているように しか思えないのだ。 作曲者ルルーが、どれほど明治10年役の事を教えられていたか わからない。しかし、この哀しい調べを聴く限りルルー自身も 滅びた西郷とそれに従った武士たちに哀切の情を感じていた事は 容易に想像がつく。


江藤淳はこのように言う。


「反逆者の軍隊の軌跡を正確に踏んで、正規軍が滅亡に向って巨歩を運んで行く。そういえば振武隊、正義隊、鵬翼隊、破竹隊などという薩軍諸隊の名称は、ほとんど富嶽隊、義烈空挺隊というような、大東亜戦争末期の陸軍特攻隊の名称を先取りしているではないか。いうまでもなく、特攻隊とは、いわば立体化した『抜刀隊』にほかならない。『前を望めば剣なり/右も左もみな剣/剣の山に登るのは/未来のことと聞きつるに/此の世に於て目のあたり/剣の山に登らんは』という状況に、敢えて身を投じて亡びようとするからである。」

「ここにいたったとき、国軍は、つまり帝国陸軍は、全く西郷に率いられた薩軍と同質の軍隊と化していた」


弾丸雨飛の間にも 二つ無き身を惜しまずに
進む我が身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の
墓なき最後を遂ぐるとも 忠義のために死ぬる身の
死にて甲斐あるものならば 死ぬるも更にうらみなし
われと思はん人たちは 一歩もあとへ引くなかれ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


作詞者外山正一がこの詩を発表したのは明治15年。35才の時。
幕臣の子として蕃書調書に学び、最初の日本人留学生として米国ミシガン大学に学んだ秀才であった。
彼もまた亡んだものへの哀切の情、西郷や桐野の、そして特攻隊の諸士のエトスに通じるものを共有していたに違いない。

再び江藤淳。

「滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ」

出所:「南洲残影/江藤淳/文芸春秋」

今日は鹿児島

鹿児島と言えば、西郷隆盛です。彼ほど愛された人物は日本の歴史上存在しないのではないでしょうか?
つくづく考えてしまいます。
でも、かれは新政府に弓を引いた賊軍の大将ですよ!
何故こんなにまで顕彰されているのでしょうか?僕自身は、彼を好きでも嫌いでもないのですが、若い頃もそして今ですら目標としたい人物ではありません。その理由は簡単で、同じ人間としてのスケール感を持てないからです。けた外れと言うか、彼の度量を測り知れないからです。
それと、倒幕の頃の西郷と、維新後の西郷は人物が変わってしまったのではないかと思うほど、その行動が異なっていると思っているからかも知れません。倒幕の中心だった頃の西郷は、リアリスティックな革命家で、物事をかなり正確に、論理的に捉えていたかと思うのですが、征韓論に敗れて下野してからの彼はそれがすっかりなりをひそめるような気がするからです。

「おはんら、一体なんちゅうことをしでかした!」

西南戦争は、西郷のこの言葉から始まりました。鹿児島私学校生徒が、政府の弾薬庫を襲ったときの彼の言葉です。
巷間言われていることですが、西南戦争時の彼は、一切の指示も決断もせず、ただ周りに担がれたままでした。彼は、この言葉を発した時に自らの運命を悟ったのではないかと思います。

「拙者儀今般政府への尋問の廉之れ有り」
これにはじまる鹿児島からの出陣も、ついには負け戦となって再び鹿児島への逃避行となります。 西南戦争は哀しいですね。 僕には、武士の中でも戦国の美風をひときわ遺す薩摩兵が、自ら滅びの道を選び取り、そして当初の目的通り、滅んでしまったように思えるからです。

「西郷、もういい加減にせんか」
病床にあって、乱の行方を心配していた木戸孝允は、こう云いました。 しかし、「いい加減」にはできなかったのでしょうね。儒教的倫理観の固まりのような大西郷は、維新後の世の中の全てが汚らわしく、特にかつて武士としての埃を捨て、自らの栄達ばかりに奔走する多くの人間が我慢ならなかったと思います。そんな連中に一泡ふかすには、自らが死ぬまで戦うしか道がないと思ったのでしょう。もとより勝敗は度外視だったと思います。

彼は、この国が何百年もかけて築き上げたこの国のかたちと、愛すべき薩摩の士風とともに、滅びの道を歩んだのだと思います。 それが、彼を愛すべき人物として今なお顕彰の対象となる理由かも知れません。

西南戦争時、西郷軍の一番隊大隊長篠原国幹(陸軍少将)の子孫と、おとといは朝4時まで飲んでました。
これも不思議な縁ですなぁ。









2009年7月22日水曜日

佐賀藩と言えば・・・

山本常朝の「葉隠」が有名です。
「武士道とは死ぬこととみつけたり」の一節が人口に膾炙してますが、
「人間一生誠短きものなり。好いた事をして暮らすべきなり」や、または
「恋の至極は忍ぶ恋とみたて候」という一節が僕のお気に入りです。

先ほどの投稿でも書きましたが、幕末の佐賀藩は戦争を支えるかなり際立った技術を持った藩でした。
ここは、江戸期のある時期に超スパルタな藩士教育をしたことをご存知でしょうか?
家督相続の際、試験に合格しないと最大で8割の家督を召し上げたそうです。
そういう厳しい掟があったため、試験に合格するためテクニックのみが偏重されたようです。
それに反抗したのが、早稲田大学創始者の大隈重信でした。

「人ト生ジテ自助独立ノ権ナク、己ノ生涯ノ利害ヲ人ニ任シテ
不羈セラルルハ牛馬ニ均シカラズヤ」

彼の言葉です。福沢諭吉もそうですが、この両名、その建学の精神が似通ってますね。

そのスパルタの詰め込み教育は、昭和になってもしばらくはその残滓があったようです。
昭和40年代の司馬遼太郎の本に、佐賀県は人口当たりの司法試験合格者数が全国一と
言うことが書いてありました。今はどうかわかりませんが。

巷間、地方分権が喧しいですが、江戸期の日本のようにまた地方は豊かな文化を育むことが
できるのでしょうか?それなくしては、どこも金太郎飴のようにミニ東京が全国にできるだけでしょう。
そして、それが今の騒ぎの顛末のような気がしてなりません。


佐賀に来ています

またまた田村さんに喜ばれそうな写真です。戊辰戦争で大活躍した佐賀藩のアームストロング砲です。上野の山に立てこもった幕府の彰義隊を不忍池を飛び越えて加賀藩邸(今の東大赤門付近)から砲撃したのがこの砲です。もう一枚の写真は、140年の時を超えて今なお残る佐賀の乱の時の弾痕です。鉛色がわかるでしょうか?夏草や兵どもの夢の跡ですなぁ
Ryo

2009年7月10日金曜日

再び小林秀雄

読書家である、みなさんに今日は小林秀雄の「読書について」から一部抜粋してご紹介したいと思います。
これは、昭和14年に著されたものです。僕の好きな文章です。特に最後の「諸君に何の不足があるというのか」という問いかけは、自分自身に問われているようで、自然と襟を正してしまいます。



 文字の数がどんなに増えようが、僕らは文字をいちいちたどり、判断し、納得し、批評さえしながら、書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する。このような精神作業の速力は、印刷の速力などとなんの関係もない。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に
目覚めさせるもので、読書は、途中でたびたび立ち止まり、自分がぼんやりしていないかどうかを確かめねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一ぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝るかもしれない。だが、その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存ししたのはどういうわけか。はっきりと眼が覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。

 書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間が居るという、在るがままの世間の姿だけを信ずれば足りるのだ。なぜ人間は、実生活で、論証の確かさだけで人を説得する不可能を承知しながら、書物の世界にはいると、論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。また、実生活では、まるで違った個性の間に知己ができることを見ながら、彼の思想は全然誤っているなどと怒鳴り立てるようになるのだろう。あるいはまた、人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知っていながら、自分とやや類似した観念を宿した顔に出会って、友人を得たなどと思いこむに至るか。
 みんな書物から人間が現れるのを待ちきれないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。君は君自身でい給え、と。一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしていない。諸君になんの不足があると言うのか。


解釈は皆さんに委ねましょう。

2009年6月28日日曜日

カナヘビ飼育中

食事中です。メニューはミールワームなる餌です。最初はそれをはしで掴む事が気持ち悪くて閉口しましたが、今では慣れました。娘は人間に飼われてる方が補食する苦労がなくて幸せかもよ、とかなり根元的な問いを発します。「自由」か、しからずんば「死」を!とこのちっちゃい恐竜の子孫が思ってるのか否か。
Ryo

2009年6月23日火曜日

第17回三と一の会お知らせ


各位
第17回三と一の会を7月10日(金)にちよだPF504会議室にて行います。
19時開始です。テーマは「『エッシャーのだまし絵と数学』(芸術と数学の密な繋がり)」で、
まげ店長がプレゼンターです。出欠をお知らせくださいね。

皆さんにもメールが行っていると思いますが、彼の次なる展開テーマは、軍事色ぷんぷんですね。とはいえ「軍事学」やら「地政学」やらが大学の学科として存在しないのは日本くらいなものなのですよ。「政治学」があるなら当然それを支えるものとして軍事学やら地政学やらは避けて通れないのですが、この国は未だに敗戦の亡霊に取りつかれていることが多々あると思います。そして、それこそがこの国混乱の大きな一因になっているとも。
ともかく、7月10日にお会いしましょう。

無常ということ


小林秀雄。
「日本における批評の文章を樹立した」と言うのが、彼を表す常套句です。僕が彼に興味を持ったのは、戦後間もない頃、この国が「一億総懺悔」などという風潮に覆われた中、
「私は馬鹿だから反省などしない。利口な奴はたんと反省するがいい」
と言い放ったということからです。

彼は非常に多くの短文を遺しています。彼にとっての畢竟の大作は「本居宣長」といえるでしょう。私は16年前にそれを購入してから、未だ読めずにいます。理由は簡単で、未だそれが読めるほど僕自身が成熟していないとおもっているからです。

彼の「無常ということ」という文章について、先日まげ店長さんのコメントに書かせてもらいましたが、これはわずか5ページ足らずの短文であるにもかかわらず、非常に考えさせられる文章でした。僕の心の琴線に触れたのです。
その中に、川端康成が語った文章として次のようなことがかかれています。

「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くとしんでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

これを受けて、小林秀雄はこんな風に書いています。

「歴史には死人だけしか現れてこない。従って退っ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が僕等を一種の動物であることから救うのだ。」

「上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれが現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。」

そうして、

「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。」

と続いて行くのです。

僕等は、「解釈」を通じて歴史や人間を理解しようとします。しかし、『解釈を拒絶して動じないものだけが美しい』という本居宣長が抱いた一番強い思想こそが、解釈だらけの現代には一番秘められた思想なのだと彼は言っています。「上手に思い出す」こととは、僕等が勝手に思い描く「解釈」を通じてではない、そこにある「常なるもの」、それを見ることなのでしょう。でも僕等はそれを見失っていると・・・。

これが、僕なりの理解です。


2009年6月17日水曜日

白河以北一山百文


福島にきています。
維新後、今でいう東北地方はタイトルのように言われました。
戊辰戦争。最後まで新政府に抵抗されたことへの腹いせをこのような蔑称にしたのだと思います。

さて、ご承知の通り会津藩は最後まで頑強に新政府軍に抵抗します。
前に三と一のテーマ「転換期の指導者像」で取り上げた河井継之助もそうですが、彼らの云い分は「武士が立たぬ」でした。
多くの藩が日和ったり、時流にのって新政府軍となったりした中で越後長岡藩と会津藩のみは、頑強に抵抗するわけですが、僕は若かりし頃、両藩ともに決して暗愚ではなかったはずなのに、「なぜ時流を読めなかったのだろう?」と不思議に思っていました。しかしながら、「中年の危機」を迎えてから「よくぞ頑強に抵抗してくれた」と思うようになりました。彼らの頑強な抵抗がなければ「型」にまで昇華した武士道250年の歴史は一体なんだったのか?と思うようになったからです。今では彼らの流した血によって「日本史は救われた」とまで思うようになっています。

「荒城の月」という歌がありますね。
「春高楼の花の宴・・・」で始まる物哀しい歌ですが。あれは仙台出身の土井晩翠という人の作詞に滝廉太郎が曲をつけたものです。土井晩翠が心に描いた荒城は、会津の鶴ヶ城でした。滝廉太郎が思い描いたのは九州竹田市にある岡城・・・。それぞれ心象は異なりましたが、彼らに共通するものは喪われた「武士の魂」だったように思います。「荒城の月」にこんな歌詞があります。

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿いし
昔の光今いずこ

もうおわかりでしょう。

「昔の光」とは、かつて存在した武士が体現していた「なにものか」だったのです。



2009年6月12日金曜日

かくも救いなき・・・

 農民文学の記念碑的名作である。しかも漱石をして「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募る時分になたら、余は是非この『土』を読ましたいと思っている」と言わしめた作品。救いのような貧しさに、気が滅入りそうになりながらも、読み進めてしまう不思議な作品でした。

 夏目漱石は、こんな文章でこの本を説明しています。

「『土』の中に出て来る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に憐れな百姓の生活である。先祖以来茨城の結城郡に居を移した地方の豪族として、多数の小作人を使用する長塚君は、彼らの獣類に近き、恐るべく困憊を極めた瀬克つ状態を、一から十まで誠実にこの『土』の中に収め尽くしたのである。彼等の下卑で、浅薄で、迷信が強くて、無邪気で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆ど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上がりがたいところを、ありありと眼に映るように描写したのが『土』である。そうして『土』は長塚君以外に何人も手を着けられ得ない、苦しい百姓生活の、最も獣類に接近した部分を、精細に直叙したものであるから、誰も及ばないと云うのである。」

 これで十分でしょう。何とも言いようのない百姓の生活が、綿々と綴られ、しかもその歩みは亀のように遅いのです。そして、全編にわたって、自然の描写が恐ろしいほど細かく、美しいのが非常に印象的です。たとえば、この本の冒頭は、以下のように始まります。

「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうっと打ちつけては又ごうっと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひゅうひゅうと悲痛の響きを立てて泣いた。短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつつ目叩いた。そうして西風がどうかするとぱったり止んで終ったかと思う程静かになった。泥を拗切って投げたような雲が不規則に林の上に凝然とひっついて空はまだ騒がしいことを示している。それで時々は思い出したように、木の枝はざわざわと鳴る。世間が俄かに心ぼそくなった。」

と、こんな調子です。自然(時に煌びやかな彩り)は彼らの生活を形づくりますが、彼らの生活に色彩はなく、地を這いつくばるような、まさに「土」色そのものなのです。

この本を読んだからでは決してないですが、最近は、日々の決まり切った日常、型にはまった日常の中にこそ真の歓びと真の美しさがあるような気がしています。冒険は飽きる・・・。ただそれだけなんだけどね・・・。

2009年6月2日火曜日

西へ行く人を慕ひて東行く


 僕のプロフィールに貼り付けられている写真は、高杉晋作です。功山寺での挙兵を表した像です。第一次長州征伐時、俗倫派に牛耳られていた長州藩の実権を自らの手に取り戻すべく、下関にある功山寺で挙兵し、乾坤一擲の大勝負を仕掛けたのです。この時彼に率いられたのが、有名な「奇兵隊」です。

 彼の大勝負は見事に成功し、長州藩は幕末維新の中心として大いに名を後世に遺したわけですので、彼のこの決断がなければ、明治維新はまた違った形になっていたことでしょう。

 

 かつて、「西行」に凝っていた時期がありました。その時に以下のような文章を年賀状に書きました。


 23才で出家し、73才で没するまで、西行は一体いくつの歌を遺したことだろう。彼の歌の特徴は、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかったと僕は思っている。彼にとっては、「一首詠むたびに一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地・・・」であり、歌こそが彼の求道の形だった。常に「いかにかすべき我が心」と身悶えするような心の底を見つめていた。

   風になびく富士の煙の空に消えて

   ゆくへも知らぬわが思ひかな

 晩年西行はこんな歌を遺した。彼はこの歌を自讃歌の第一にあげていたという。この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地ではなかったか。

♦  ♦  ♦

   西へ行く人を慕ひて東行く

   心の底ぞ神や知るらむ

 西行を愛し、自らを東行と号した維新の英傑高杉晋作は、こんな歌を遺している。「動けば来電の如く発すれば風雨の如し」と碑銘に刻まれた、彼の破天荒で、何の衒いも気負いもなく、酒に酔い、三味線に唄い、そんなことのついでに驚天動地の事業をやってのけた彼の生涯を貫く心意気が、この歌に凝縮されているように思う。

♦  ♦  ♦


   人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん。


 やはり、男はこれだ!

2009年6月1日月曜日

文殊の知恵


5月26日に会のメンバー有志、8名で集まりました。
そこで議題とした「作品」をアップします。
スキャニングでは、微に入り細に渡る驚異の緻密さが
わかりにくくなっているので、残念です。

30日付の日経の最終面で「障害者芸術」のことが
取り上げられていました。あまりにタイムリーな話題で
正直驚きましたが、今月17日に障害者の描いた作品群を集めたバーチャルな美術館がNet上にオープンするらしいです。
そんなところに 彼の作品を紹介するのがいいのかも知れませんね。
ただ、「芸術」なるものにに、「障害者」とそれ以外の区分をつけることが私にはどうも違和感があります。何のこっちゃ?って感じです。
ゴッホだって精神を病んでいたという意味では、「常人」ではありませんしね。

今日のお昼にheeroesさんからもいろいろアドバイスをもらいました。

いろいろと、みなさんのお知恵を拝借できたことを嬉しく思います。
26日は飲みすぎました。そして、酔っ払いました。
全裸にならなかったのが唯一の救いです。

それでは週末の3と1でお会いしましょう。







2009年5月21日木曜日

第16回三と一の会のお知らせ

「書物を読むのはごく悪うございます。有体に云うと、読書ほど修業の妨げになるものは無いようです。私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当がつきません。それをいい加減に揣摩する癖がつくと、それが座るときの妨になって、自分以上の境界を予期してみたり、悟を待ち受けてみたり、充分突込んで行くべきところに頓挫ができます。(後略)」
「門/夏目漱石」

主人公宗助が、禅寺において一向に公案の要領を得ることができないのに業を煮やし、あれやこれやで脳を疲れさすより、いっそその道の書物でも読んだ方がよくないかと、僧に尋ねた時の答えがこれ。
penguin99さん、やはり「禅」は知的思弁を排除するのですよ。日本語に「体得」という良い言葉ありますが、「体=身体」は避けて通れそうもない。

やっと、本題。

標記のとおり、第16回を6月5日(金)に行います。
19時よりちよだプラットフォームにて。
プレゼンターはしょうたろうくん。
テーマは「おカネの本当のしくみ~大学では決して教えない金融の根本原理」です!

ご参加お待ちしてます。


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「人生は不意打ち」だ!
そんな事態にも慌てず、騒がず、うろたえず、それに対処するために「観」を養うことを目的として、
様々なテーマを語り合う場を2008年2月に立ち上げました。その名も「三と一の会」。
「友と交わるに須らく三分の侠気を帯びるべし
 人となるには一点の素心を要す」―菜根譚―
会の名称はここから採りました。

現在、入会メンバーは25人。月1回の集まりには10~15名前後の出席者です。
最近はかなり新しいメンバーも増えて、顔ぶれもかなり多彩になっています。

ここで、これまでの議論してきたテーマを振り返ってみます。

第1回 「経営戦略を問い直す」
第2回 「ダイアログ」
第3回 「国際政治とアリソン」
第4回 「Uボートとオペレーションズリサーチ」
第5回 「飲み会力」
第6回 「オルフェウスプログラム」
第7回 「転換期の指導者像」
第8回 「道元と四次元ポケットその1」
第9回 「道元と四次元ポケットその2」
第10回「フェルメールの絵」
第11回「大忘年会」
第12回「ある明治の記録」
第13回「エニグマ暗号機と群論 純粋数学の楽しみ方使い方」
第14回「恋愛から学ぶ競争戦略」
第15回「不完全性定理と禅」

と、ざっとこんなもんです。

こうしてみると、ほんとに多種多彩ですね。資料を準備し、プレゼンしてくれた皆さまに感謝です。

さて、このブログですが、どんな風に使いましょうか?
皆さまの意見をお待ちしています。
更新は、現状の会のHPよりは頻繁に行うつもりです(Kさん、ごめん。悪気はありません)。
私事ですが、僕は文章を書くことに特別の思い入れがあるので、
更新する際に出てくる稚拙な駄文にお付き合いください。

それでは。

三と一の会 
代表  RYO