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2011年6月14日火曜日

戦前の日本人

今日も、司馬遼太郎の風塵抄から・・・。

彼は、こういう。

日本人は、むかしもいまも礼儀正しい民族だとされている。
が、電気ジャーのように、知っている人がボタンを押すと、礼儀という温かいお湯を出してくれる。
そうでなければ、”閉”のままで、仏頂面をして、バス停やプラットフォームに立っている。

日本人のこうした二面性、自らの世間内では非常に親切で思いやりがあるのに、世間外では逆に非常に冷たくなるというのは大いに心あたる。

司馬は2年の軍隊経験の中で、当時部下になってくれた下士官兵を、皆若いながらも古風で
以て六尺の孤を託すべし
といった人柄が多かったと表現している。昔は、そうした日本人がたくさんいたと、別のところで書いてもいる。

翻って今はどうか?

ニューヨークで同じホテルに十数泊した。
毎晩、『ホテルのメインバーで、酒をのんだ。
遠見でみると、極東の紳士たちはバーの従業員に対して横柄であるようにみえた。
「運チャン、新宿まで行ってくれ」
という、東京でもしばしば見かけるのと同質の横柄さである。

と、自身の体験を語ったあとでこう続ける。

右のホテルのバーは、ウェイトレスが一人だけできりもりしていた。
彼女はニューヨークの大学の修士課程の女子学生で、最後の夜、家内に対し、涙をうかべて別れを惜しんでくれた。
「しかし、日本のビジネスマンは、大きらいです」
と、彼女がつけ加えたことが、こたえた。

以上は、私どもが、以前の日本人でなくなっていることを考えたいために書いた。この調子なら、いずれ大がかりな仕返しをうけて(戦前のABCD包囲陣のように)日本は衰亡の道をたどるかもしれない。

司馬はここで人としてのありようを言い、政治だの国家だのは語っていない。ただ僕がいつもここで書いているように、人としてのありよう、人としての生き方こそが政治を左右し、ひいてはこの国を形づくるのだ。

司馬の文章を読んで、あらためて実に惜しい人を亡くしたと感じた。

今日はこれまで。

出所:風塵抄二 中央公論社

注)
「以て六尺の孤を託すべし」とは、論語にある言葉。「幼いみなしごを託しても大丈夫な人間」という意味。




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