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2011年6月22日水曜日

「脱原発」で思うこと

自民党の石原のぶてる(漢字変換も面倒くさいと思うほど価値のない政治家だとぼくには思える)が、「ヒステリー」と呼んだところの「脱原発」についてちょっと考えてみたい。

原発は確かに一旦事故がおきれば、非常に大きな影響を空間的にも時間的にも社会に引き起こす。だから、地震国日本には不要であり、自然エネルギーに転換すべきであるというのが、最近の「脱原発」の論調であると思う。

まさしくそのとおりであると思う。危険度が高いのは間違いない。ただ、だからといって金輪際使うのはやめようという結論はどうもおかしい。危険を抑え込む知恵は当然持ちえているはずだからだ。これまで以上に安全対策を講じた上で稼動させたらよいではないか。

「絶対安全といえるか!」

と、色をなして怒る人には「世の中に絶対などという言葉はない」という至極当然のことを返したい。

僕は脱原発に対しては反対も賛成も留保する。ここで言いたいのはその考え方のいかがわしさだけである。

ちょっと前まで交通事故では年間1万人を超す死者がいた。そのとき、誰一人として「自動車は危険だから『脱車社会』だ」とは言わなかった。なのになぜ、原発は危険だから『脱原発』というのだろう。

「時間的にも空間的もその影響は大きいからだ」

危険度、事故の大きさからいって交通事故の死者数とは比べものにならないからそう言うのか?ならば、目をつむっていられる数はどれほどか教えてくれ。1万人の死者ならリスクとして受け入れ、3万人なら受け入れられないのか?そういう人は「人命が何より大事だ」言ってはいけない。大事なのはその「命」ではなくその「数」だからだ。

再生エネルギーの実用化に向けて不断の努力を続けることは当然だ。問題は、それで必要な電力をまかなうのにはまだまだ時間がかかるということで、それまでの間が問題なのだ。原発を廃止して、火力に頼ってよしとするのか?それまで地球温暖化が大問題で、化石燃料によるCO2の排出が大問題なのではなかったのか?

根拠のない放射線量におびえ、将来の不確実な発ガンリスクを恐れて、確実に増加するCO2の排出に目をつぶるその正当な理由を教えてくれ。

自分の命が大事で地球温暖化などはどうでもいい

というのならわかるぞ。僕はそれを義しいとは思わないが理由のひとつになりえるからだ。

ドイツの「脱原発」に惑わされてはいけない。陸続きの欧州は電力の売り買いは普通にできるし、ドイツがそういうのなら、フランスからは「電力をかいません」というべきだ。フランスは電力の7割が原子力だし、自分の国は脱原発といいながら、他の国の原発による電力を買うのは「脱原発」といえるのか?

つらつら書きなぐってきた・・・。


かつてこの国は東亜戦争に負け、もう戦争はこりごりと思った。そして日本人は「戦争」を考えないように思考停止した。今回の騒動もどうも同じに思える。原発はもうこりごり。だから脱原発だと・・・。どちらも同じ思考停止のように思えるのは僕だけか?

今日はこれまで。

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