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2010年1月12日火曜日

第23回終了しました

第23回の大新年会が無事終わりました。

ひと月に1回の頻度が多いのか、少ないのか分かりませんが、
顔を合わせるたびにいろいろな話で盛り上がることのできるメンバーの
参集をとても嬉しく思っています。

次回は2月5日(金)です。
何と第24回!会を立ち上げてから丸2年経過したことになります。
まさしく光陰矢の如しです。

大新年会出席者には宣言しましたが、
私、1月末をもって現在の職を辞します。
2月からは無職となります。
それにともなって、会の幹事を以下の五大老による持ち回り制とします。
鈴木・奥田・菅原・山科・関根の5名。

私は五大老だけでなく、会のメンバーには全幅の信頼を置いていますので、
今後もこれまで同様にこの会は続いていくものと思います。
私も会を離れるわけではありません。
この会は私の財産だと思っていますので。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「私欲の為に弓矢は取らぬ。
 ただ筋目を持っていずこへも力を貸す」

上杉謙信の言葉です。彼の生涯はまさしくこの通りですね。
最近のお気に入りの言葉です。
これ、「侠気」に通ずるでしょ。
物事の損得や功利でなく、「義しいか否か」で事を為す。
僕は、こうありたいなぁと思っています。

「他人を支配しようとする前に、まず自分自身を支配せよ」

これは、米国陸軍士官学校でのD・マッカーサーの講演の一節です。
これも、最近のお気に入り。
指揮官を育成するための同校の教育主眼は「人格」教育だそうです。
まずは、「自分を高めよ」と・・・。

話がつきなくなってきたので、ここらでやめます。

それではまた。

追伸)
田村さんに「亮さんは十字軍ですか?」と言われました。
この混濁の世の中に、こんなこと言い出すのは
まさしくそうかも知れません。

2010年1月7日木曜日

新春 2010

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、2010最初のアップですが、昨年末に読んだ本のご紹介をしたいと思います。
最近、やけにいろんな事で怒りっぽくなったなと感じていて、何とかならんもんかと
考えていたときに、本屋で見つけたものです。

「怒らないこと―役立つ初期仏教法話1」  
 スリランカ初期仏教長老 アルボムッレ・スマナサーラ著

初期仏教というのは、まだいわゆるお経ができる前ですね。釈尊の言葉がそのまま弟子に口伝された頃です。この本がですねぇ、実にいいのですよ。
例えば、こんなくだりがあります。

 私はよく「怒りたくないのに怒ってしまうのです」といった相談を受けるのです。
 答えは明白です。簡単で、完全な方法をお教えします。
 それは「怒らないこと」です。

これ、どうですか?
この人をくったような、文章の後には次のように続きます。

 けれど私が「怒らなければよいのでは」と言ったら、 
 ほとんどすべての人が「それができないから聞いているのだ」と
 ムッとするでしょう。みなさんは、実のところ、「私は怒りたい放題、
 思う存分、勝手に怒ります。でも怒ってはいけないから、何かいい方法を教えてください」と
 思っているのです。誰もかれもが、怒りたくて仕方がない。けれども心のどこかで
 「怒らないほうがいいのでは」と思ったりもしている。自分の気持ちにこうした矛盾が
 あるのですが、そのことに気づいていない。それで「私は怒りたくない」などと嘘をつく
 羽目になるのです。
 そうでしょう?あなたが怒ったのは、怒りたかったからでしょう?「怒りたくない」などと
 いうのは嘘ですよ。本当に怒りたくないと思っている人は、自らを戒めて注意深く過ごすので、
 滅多なことでは怒りませんし、怒ってしまったら恥ずかしくてシュンとしています。
 
 仏教は、怒りを上手にごまかす方法などに、関心はありません。人生はあまりに短いのです。
 生きている間に、なんとかして少しでもまともな人間になりたいのです。
 あなたは本当に幸福になりたいですか?
 もし、本当にそう望むなら、まず「私は怒りたいのだ。ロクなものではないのだ」と
 認めることです。それから「怒りとは何か」「我々はなぜ怒るのか?」を理解しましょう。
 問題の解決は、問題の理解から始まります。

と、こんな風に続いていきます。僕は、この本を読んでかなり気分が楽になりました。
まだまだ「怒ること」をなくすことはできませんが、少なくとも「あっ、怒っている」と
すぐに認識できるようになりました。
女房にも「最近怒らなくなったね」と言われてます。

 人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。
 それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。
 それを覚えておいてください。
 「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから、怒るのです。

僕は「人間は不完全なものである」ということは理解していたつもりですし、
「自分はロクでもない奴だ」とは常々公言もしているのですが、心の奥底では「自分は
正しい」と思っているわけですね。この本によると、だから「怒る」のだと・・・。
そう書いてありました。

この続きは、興味のある人はお読みください。

今年は、「怒る」ことをやめようと考えています。
ただ、「怒り」にも「私憤」と「義憤」がありますので、
やめるのは「私憤」、「義憤」は大いに結構とは思っています。
「義憤」こそが、歴史を変えてきたエネルギーですしね。

混濁の世に我立てば
義憤に燃えて血潮湧く

それでは、新年会でお会いしましょう。




2009年12月29日火曜日

今年も暮れる・・・

2009年も暮れる・・・。
僕は朝日より夕日が好きだ。
1日の終わりに安堵するから。
特に真冬の夕日が僕を照らし、足元から延びる長い影を見るたびに
1日の無事暮れることをいつも安堵する。

皆さまの2009年はどんな年だったでしょうか。
人の世の営みなど関係なく、日はまた昇り、そして沈んでいきます。
明けぬ夜はなく、消えぬ悲しみや苦しみもない。


拂意を憂うること毋れ(ふついをうれうることなかれ)
快心を喜ぶこと毋れ(かいしんをよろこぶことなかれ)
久安を恃むこと毋れ(きゅうあんをたのむことなかれ)
初難を憚ること毋れ(しょなんをはばかることなかれ)

『思い通りにならないからといって、憂えてはならないし、
思い通りになったからといってむやみに喜んではならない。
いつまでも安全無事だからといって、それをあてにしてはならないし、
最初に困難・災難にぶつかったからといって恐れ、尻込みしてはならない』

菜根譚

それではみなさん良いお年をお迎えください。




2009年12月16日水曜日

六分か三分か

大忘年会に出席頂きました皆さま、大変お疲れさまでした。
飲み会の席での各自のスピーチはなかなか面白かったですね。
冒頭にちょっと説明しましたが、三と一の会は2008年2月に第1回を開催して、前回の大忘年会が第22回。
延べ参加人数は256人となりました。月に1度の集まりですが、プレゼン内容だけでなく、その後の飲み会までも
毎回盛り上がる印象的なものになっていると思います。

さて、その席でちらっと話しました。与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」ですが、

「妻をめとらば才たけて 見目うるわしく情けあり 友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」

ここでは、「六分の侠気」と言っているのですね。会のネーミングのもととなった菜根譚では「三分の侠気」なのです。
6か3か、どっちがいいかなんてわかるはずありません。そもそも量ることができないものですしね。
ただ、僕は「一分」では少ないかなと思うので、三分くらいがちょうどいいのではないかなと思っています。

「侠気」は「一肌脱ぐ」こと、「いっちょうやってやるか」といった採算度外視の心持ちの事だと思っていますが、
皆さんのお考えはいかがでしょうか。

さて、次回第23回は大新年会も兼ねようと思っているので、1月の早いうちに開催したいと思います。
決まり次第、また皆さんには連絡します。

それでは、風邪などひかぬように毎日を健やかにお過ごしください。
ごきげんよう。



2009年11月22日日曜日

憂国忌



我々は4年待った。最後の1年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分まとう。共に起って義の為に共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻してそこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない、日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち共に死のう。我々は至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

昭和45年 11月25日 檄


2009年11月14日土曜日

さて、本日はある作家の話

豊田穣という直木賞作家はご存知だろうか?

海軍兵学校第68期生で※艦爆乗りのパイロット。昭和18年4月、作戦飛行中、南太平洋ソロモン海で撃墜されて捕虜になった人物である。 彼の乗機は2人乗り、漂流する二人をニュージーランド海軍の哨戒艇が発見し引き上げようとした時、部下は彼にこう言う
「※分隊士、まだ死なんでもいいですか?」
彼はただこう答えた
「待て」と。
彼等2人は戦後昭和21年に帰国する。

その後、豊田は新聞記者から作家へ、その部下は航空自衛隊に勤務し、三等空佐で退官。
その間、幾度となくかつての上官であった豊田を訪ねていた。
独身を通したその部下は、退官後温泉地でマッサージ師として暮らしていたが、
警官をして「実に見事な割腹自殺です」と言わしめる程の自決を遂げる。
しばらくして豊田は、その部下が生前「多くの戦友が戦死しているのに、捕虜になって生き残って申し訳ない。
今度事があったら立派に死んでみせる」と語っていたのを知り言葉を失う。
独身を通したのも、戦地へ出る前に結核で死のうとしている婚約者に「生涯結婚はしない」を約束した事、それに「捕虜になって生き残った人間が人並みな生活を送っちゃあいけない」と思ったからだという。
豊田は、その事を書いた「割腹」という本の中で次のように述べている。

「世間の大部分の人は、幸せに生きる事に専念している。しかし、中には不幸になろうと希って生きてきた人間もいたのである・・・。
私は孤独を味わっていた。海上に漂流する浮舟の上の二人のうち、一人が突然別れのあいさつもかけずに消滅し、自分だけが浮舟の上に取り残されたのを意識した。」

その豊田については、「捕虜だったくせに大きな顔するな」などの投書も多く、彼の作家としての生涯は旧海軍の中でも賛否両論があったと聞く。死の前年に著わした「戦争と虜囚のわが半世紀」の中で、心臓肥大の病気に苦しむ毎日を送りながら次のように書き記す。

「そのように苦難のとき、私は自分の捕虜経験にぶち当る。戦死すべきところを生き残った自分は、もっとも惨めに死んでゆくであろう・・・。(中略)そのようなとき。私は天を仰ぐ。南緯十度、ソロモンの海面で仰いだ南十字星がそこにあった。私の生涯でもっとも印象的な星がそこにあった。あの星の下で今も多くの同期生が、自分を待っているのだ・・・そう考えると私は平安を取り戻した。」

1994年、豊田は74年の生涯を閉じる。最後の瞬間、南十字星は希望の星の如く彼を導いたに違いない・・・。

※艦爆:艦上爆撃機(空母からの離着陸ができるような爆撃機)2~3名乗りが普通
※分隊士:分隊の一番上が分隊長、その下が分隊士

2009年11月12日木曜日

振る舞いを考える

ここのところ、どうも政治ネタが続いています。今日も障りはそれですが、言いたいことは別にあるのでお付き合いください。

行政刷新会議なるものが喧しい。事業の仕分けをして予算から無駄を省くためだそうです。
その意気やよし!ただ、仕分け人なる人の品位は何とかならんか?
まるで弱い者いじめのような光景がテレビで映しだされていますね。
一体、おまえら何さまのつもりだ!と怒鳴りたいですね僕は。
まるで担当の官僚を苛めているようにしか見えないのですが、皆さんは違いますか?
世の中には、自分の立場が上となると、極端に下の者を見下して、横柄でぞんざいな
言葉づかいをする人間が多いですが、あの光景はまさしく、それですね。見ていて非常に気分が悪くなります。

意気やよし!ただ振る舞いは最低!

自分の立場が上だからこそ、下の立場を思いやるのが当然でしょう!
なぜ彼の仕分け人なる人たちはそれができないのでしょうね。
品性下劣。オルテガの言うまさしく「大衆」の見本のような人たちです。

先日、仕分け人の人選(外国人がはいってる)に亀井静香が文句を付けましたね。
あれは正論でしょう。公権力の行使に何故外国人がはいっているのか?
やはり民主党を疑いますね、僕は。

さて、その外国人。かなりテレビにも出ていて日本語が堪能で証券会社だったっけな?
経済調査部長らしいです。

仮にも知識人のはしくれなら、遠慮しろよ!というのが僕の感想です。
「選ばれたのは光栄ですが自分は外国人ですので、日本国の公権力の行使にかかわるのは、
どうかと思います」くらいは言って、民主党に渇を入れてほしかった、と思うのはないものねだりですかね。

良識、常識ある大人の振る舞いをしましょうね。
もとい、カッコいい振る舞いをしましょうね。
言葉づかいも、所作動作もすべて。

しかし、たった1時間の話し合いで廃止やら何やらを決めていいものか?
緊急には必要ないかもしれないが、長期的にみて必要なものまで
廃止してるんじゃないのか?
みなさん、どう思う?

今日は以上です。




2009年11月4日水曜日

決心つかず・・・

死ぬまでには絶対読破しようと思っていた本がありまして、その中の一つが「失われた時を求めて/マルセルプルースト」です。文庫で全10巻!それもみんな600頁くらいの厚さです。この春よりずっと小説づいていたので、その勢いを借りて「いよいよか」と気負いましたが、いざ読み進めようとすると、ページを繰る手付きが鈍ります。つまりは、決心がつかないのです。

この本の内容ははっきりとはわかりませんが、題名の通り人間の記憶を通した物語です(だと思います)。
不惑を越えると、「忘れっぽい」ことが非常に多くなってきていて、先日は「なぜあれを思い出せなくなるのか」など言う本を読んでしまいました。ほんとに記憶の強さが薄れてきているようです。

にもかかわらず、何故人は「思い出したくもない嫌な記憶」を簡単に消すことができないんでしょうか。そういった記憶こそ真っ先に勝手に消失してほしいのですが、それがある故にくら~い気分になったり、怒りに胸がかきむしられるようになったり、心が乱れることがあります。

というようなわけで、人間の記憶に関する物語である、冒頭の書を読んでみようと思い立ったわけですが、それをその記憶が邪魔をするという、何ともいいようのない状況になっています。

さて、明後日は久々の三と一の定例会です。そろそろ12月の忘年会についてもアイデアを出さないとだめですね!
それでは明後日にお会いしましょう。

2009年10月26日月曜日

20回記念で合宿!

祝20回開催!

 早いもので、2008年2月が第1回となった三と一の会も、2009年10月度の開催で20回を数えることになりました。これも毎回資料を準備してくれたプレゼンターと、それを支える会の皆さまのおかげだと思っております。

 合宿場所は信州蓼科高原。紅葉の美しさに目を奪われ、日本酒の旨さに酔いしれ、酔っ払った時しかいいことを言わないいつもの人の口舌に頷き、事前に計画していった決定予定事項のほとんどは決まらず・・・。基本的にはいつもの飲み会でした。総勢6名(男5、女1)の参加でした。

 来るべき30回に何をしたいか?その時までにどうなっていたいか?などなど、話し合った内容は密度が濃かったように思います。特に「この会はそもそもなんだ?」という極めて根源的な問いには、私自身上手に回答することができませんでした。菜根譚からとった「三と一」は説明できても、会の趣旨である「観を養う」とは一体どういうことなのか。それを説明できなかったのはまったくもって私の不徳、不勉強のいたすところでお恥ずかしい限りです。

 異業種交流会は「あざとい」、自己啓発は「照れくさい」・・・。それとは別の「愉快な飲み仲間」(入会基準である飲んで楽しい人というのは未来永劫遺したい基準です)であるにも関わらず、プラスアルファの「何か」があり、それを求めて人が集まってくるようなそんな会のイメージは、漠然とですがみんな共有できたと思います。

 その第三の道を表す言葉を見つけ、それを旗頭にもう一度「三と一の会」の趣旨を皆さんに諮りたいと思います。何かよい考えがあったら是非とも出して下さい。この会はどんな会であってほしいのか?

 詳しくは、次回11月6日の第21回三と一の会で説明したいと思います。

 最後になりましたが、今回の合宿幹事を卒なくこなしてくれた菅原さんと、ともこちゃんに合宿参加者全員の気持ちを代表して
心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

 15時から飲み始め、途中眠って深夜の2時に起きたら、例の人はこんな素敵な顔になっていました(笑)。



2009年10月16日金曜日

片付かない物語

この夏目漱石の写真は最も人口に膾炙しているものだと思います。
最近知ったのですが、この写真の夏目漱石は今の私と同じ年だったそうです。
ちょっとびっくりしました。明治天皇の大喪の礼の時だそうです。
腕に喪章をつけてますしね。

さて、先月彼の後期3部作の最後である「こころ」を読了して、改めて、近代化への抗しがたい大きなうねりの中へ、否応なく投げ込まれざるを得なかった夏目漱石の悲哀というか、苦衷というかがわかったような気がしました。

前期3部作「三四郎」「それから」「門」から、後期3部作と言われる「彼岸迄」「行人」「こころ」と読み進めてきて初めてわかりましたが、彼の小説は決して最後に片付いていないのです。どこか中途半端で終わっているのです。
「こころ」の後に書かれた「道草」の最後は

「何、世の中に片付くものなんてありやしないのさ」と主人公がつぶやいて終わります。

「道草」は漱石の自伝とも呼ばれていますが、最後の主人公のセリフは漱石の心情を誠にうまく表していると思います。
彼は、そういう心持から一時も離れることができなかったのかも知れません。
後年彼は「則天去私」という境地を好んで使いますが、漱石は、最後までその「私」がどこの何者なのかの答えを探し続けて悶えていたような気がしてます。決して悟ったのではないと思っています。







2009年9月24日木曜日

「こころ」夏目漱石

5連休はいかがお過ごしでしたか?
僕は19日が娘の運動会でした。20日からは2泊3日で
乗鞍高原の無印キャンプ場へ行ってきました。
帰路は、みなさんご承知のとおり中央道の大渋滞にはまり、8時間以上
ハンドルを握っていました。車降りてもしばらく体が揺れてましたよ。
恐るべし、1000円の威力。この先、無料になったら一体どういうことになるのでしょうか?
さて、今日は民主党政権への文句ではなく、
タイトルの通り夏目漱石の「こころ」についてです。

今年の春からいずれ娘にも読ませようと思い、ちくま文庫の「夏目漱石全集」を
買いそろえています。僕はもう全集読破も目前となりました。
ふと思いましたが、娘が夏目漱石を読む頃はもう、「本」ではないかもしれませんね。
田村さんや関根さんが心配するごとく・・・。

夏目漱石や森鴎外といった明治の文豪が学校の教科書から消えて久しいですね。
一体、国語で何を習うのでしょうか?僕が夏目漱石の「こころ」を読んだのは、
16歳のころ、釧路~東京間の船中でした。30時間の長旅の無聊を、それでしのいでいたので
明確に覚えているつもりでした。しかしながら、ついこの間読み返した時に、
ほとんど内容を忘れていたことに愕然とさせられました。
また、29年間前に16歳だった今の自分の年齢にも非常に大きなショックを受けました(泣)

皆さんは読んだことがありますか?
漱石の小説は、そのほとんどが男女関係を中心に描かれていますが、
「こころ」はその集大成かもしれません。要は人間の「エゴイズム」についての話です。
この年齢になって再び読み直すとは思いもしませんでしたが、
実に深い内容です。むしろ、若造だったころは何もわかっていなかったかも知れません。
比べるつもりなど毛頭ありませんが、僕も「矛盾」な人間ですので、
漱石が生涯かけて悩み続け、外見だけを欧化して取り繕っているかのような社会に対して
抱いていた嫌悪感の一端がわかるような気がします。

漱石はその苦悩の果てに「則天去私」という一つの境地に達したと言われてます。
達したというより、それを無理やり作りだしたのではないかなと僕は思います。
言葉で理解してもそれを実際に行動に移せない、自らの行動原理にならないという
矛盾を痛いほど感じていたのではないかと思います。

漱石の臨終時、傍で泣く娘に、漱石の妻が「泣いてはいけません」と叱りました。
その際の漱石の言葉は

「いいんだよ、泣いても」

だったそうです。

好むと好まざるにかかわらず、「近代」という時代の中に突然放り込まれ、
それをさらりと受け流すことのできなかった、真面目すぎるほど真面目で
純粋であった夏目漱石が、彼が背負ってしまった「近代」という魔物から
最後に開放された言葉であったと僕は思っています。

2009年9月18日金曜日

またまた政治ネタです。

かつて藤原道長でしたかね、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることのなきと思へば」と詠ったのは。

民主党は、今まさしくこんな感じかも知れませんね。
衆議院議員定数450のうち、300超ですからね。3分の2を超えているわけですから「憲法改正」すらできてしまう。
でも、確か300超の内の半数近くだかが1年生議員なんでしょ?
これを異常事態と言わずに何と言ったらいいのでしょう?
新人議員はおそらく、そのほとんどがシングルイシューを訴えてきて、しかも有権者にとってみれば
「とりあえず民主党だから」といったムードだけで当選させてしまったわけですからね。
そんな素人議員だらけで、この国の運営がきちんとできるのだろうかと心の底から心配してます。

マニュフェストなるものの実行が民主党政権に託された使命だとか言ってますが、
「過ちは改むるにしかず」という言葉を知っているのかどうか・・・。
僕は、政治家たるもの思想・信条のぶれはあってはならないと思いますが、マニュフェスト(政策)なんてものは
朝令暮改で結構だと思っています。政権の外にいて、100%の情報がない中で作成した政策が、
いざ与党になってみて、従える官僚たちからでてきた情報と比べてみた時、そこに掲げてきた政策の
実現不可能、または実現後の不都合が明らかになったなら、躊躇なく修正すべきだと思うのですが、どうでしょうか?

そもそも、政策だけを掲げてそれを国民に選んでもらうのだ、と臆面もなく行ってますが、
それなら、国会議員は何のためにいるのか意味がわからなくなります。
政党が政策を考えて、どっちがいいのか国民に選んでもらうことが理想の姿だと思うのなら、
果たして、「政治」を担う議員の存在価値は那辺にありや。

さてさて、一方の自民党はどうなっちゃうのでしょうか?
もうかつての党勢を取り戻すことはしばらくできないのではないでしょうか?
秘策などあろうはずもないと思いますが、ここらで先祖がえりをしたらどうかなと思います。
明確に保守本流を標榜する以外、民主党に対抗する術を持ちえないと思っています。
僕は密かに安倍晋三さんに期待してたのですよ。彼は明確に保守を打ち出していましたからね。
ところが、やはりお坊ちゃんでしたね。わずか1年で投げだしてしまうとは・・・。
やはり最後は「人の質」に戻ってくるのですね。もう少し彼に強さがあれば、自民党の今の大敗は
なかったかもしれませんしねぇ・・・。
次の福田さんは申し訳ないですが、論外です。
一体彼のよってたつ基盤は何だったのですか?
いろいろ言われた麻生さんの方が僕は数倍「まし」だったと思います。

かつて小泉総理が「自民党をぶっ壊す」といって国民の喝采をあびましたが、
彼は結果的にその通りのことをして、政界を引退してしまいましたね。
彼がこの国に遺したものは、一体何だったのでしょうか?
それを「非」とした人が今回の選挙で大挙して民主党へ流れたのではないですか?
思い出してほしいのは彼が総理に就任した時の支持率の高さです。
今の鳩山さんも同じですね。
いい加減に「支持率」なるものがいかにくだらない指標なのか、いや指標にすらならない
くだらないものなのかを国民は気づいてもよさそうだとは思うのですがね。

さてさて、他愛もないことを書き連ねましたが、民主党の支持者の人がいたらごめんなさい。
僕は鳩山さんのコスモポリタンみたいな、日本を背負わない言動が大っ嫌いなのです。
おまえは何語をしゃべって、どこの国に生きているんだ!と問い詰めてみたいですね。
と、面と向かって言いたい政治家が今回は他に2人も入閣、もしくはそれに準じてますね。
社民党の福島瑞穂と辻本清美のおバカコンビですが・・・。
そのことだけでも、今の政権に対して絶望するのに十分な条件です、僕にとっては。

終わり



2009年9月3日木曜日

「変化」と「現状維持」のジレンマ

自民党が大敗しました。
僕自身は保守本流を自称していますので、自民党を是とはしませんが、
この大敗には驚きました。まさかこれほど負けるとは・・・。

かつて小泉純一郎が「自民党をぶっ潰す」といって、総裁・総理になり、
国民の支持率は8割を超えましたね。
彼が絶叫していたのは要するに「変化」です。

変化によって、失うものは明確にわかるのに、
変化によって得られるものは、あくまでも予想でしかありません。
不確実なものでしかありえないと思っています。

8割もの「変化」を支持した人は、その望んだ「変化」の先の今のこの国に
いかなる状況が出現したかを少しは思い起したらどうでしょう。

それでもなお彼らが、今は現状維持より、変化を望む一種の「賭け」に出ることを選択したのなら、
かつてこの国が中国と戦い続け、疲弊しながらも対米英戦に突入した歴史を「不合理」の名の
元に切り捨て、嘲ることはやめてほしいと思います。
あれは、「賭け」「乾坤一擲の大勝負」でしたからね、まさしく・・・。

と、いろいろ考えてしまいます。









2009年8月13日木曜日

226追記1

前回の三と一で「僕は安藤輝三大尉の事が知りたくて226にはまった」と言いました。
この写真の人物です。32歳でした。
彼は蹶起に最後まで反対しており、参加の決断は事件の4日前でした。
しかしながら、彼の率いた歩兵第3聯隊第6中隊は、他の将校に率いられた部隊の兵たちがが勝手に本隊に逃げ帰ってしまったりした状況も多かった中で、最後まで鉄の如き団結を保持していました。

事件が収束に向かいつつある時、彼の上官が安藤大尉を説得にやってきます。

「安藤、兵がかわいそうだから兵は帰してやれ」

それを聞いた安藤大尉は憤然、次のように言い放ちます!

私は兵がかわいそうだからやったのです!あなたにそんなことを言われると癪に触ります!」と・・・。

この安藤大尉の絶叫、226の一断面をよく伝えていると思います。

このような状況は、蹶起の失敗が濃厚になってきた頃のそこかしこに見られたようです。

蹶起将校の一人、野中大尉が兵を引くか引かぬかに迷いながら、

「兵がかわいそうだから、兵だけは帰してやろう」と

事件の幕を自ら達の手で引こうとしたとき、

「兵がかわいそうですって!全国の農民はかわいそうではないんですか!

と、野中大尉を翻意させたのは、蹶起将校とつながりがあり、応援のためにそこにきた民間人渋川善助でした。

彼も銃殺刑となりました。

それでは、また。



2009年8月2日日曜日

日本を今一度洗濯いたし申し候

また坂本龍馬ネタです。

タイトルの言葉、今ではかなり人口に膾炙してますね。
28歳のころに、姉乙女に送った手紙にあった言葉です。

龍馬28歳のころと言えば、土佐藩を脱藩して江戸に出てきて勝海舟の弟子になったころだと思います。
もしくは、神戸海軍操練所の塾頭になったころかな・・・。

いずれにしても、かくも気宇壮大なことを本当にやってしまったのだから、とにかく凄い。
しかも、何の悲愴感もなく平然とやってのけたところが、今なお万人を惹きつける魅力だと思います。
彼の場合は、自分のやりたいことをやるのに、時の幕藩体制が邪魔だったから潰してしまったというような感がありますね。

先日、この手紙の文句を、龍馬直筆の手紙(おそらく複製)でみたとき、
迂闊にもうるうる来てしまいました。

2009年7月28日火曜日

坂本龍馬

今日は高知に来ています。
「竜馬がゆく」を読んだ後の魂が震えるような感動は未だに忘れられません。
司馬遼太郎はあとがきにこう書いています。

「この若者の場合、天がこの国の混乱を鎮めるためにこの世に遣わし、その役割を終えた途端に天に召し上げたとしか思えない」

彼は確か33歳の誕生日11月15日に暗殺されています。暗殺犯は未だに謎が多く、特定できていないようですね。薩摩藩が後ろで糸を引いていたとの説もありますね。龍馬は戦争を必要なかったと思っていましたしね。徳川慶喜が大政奉還したときに、徳川慶喜に対して涙したと言われてます。彼は自分が商売(貿易)しやすい世の中になればそれでいいと思っていました。一方の薩摩は振り上げた拳の下ろし先を何としても見つけたかった。何としても戦争を欲した薩摩にとってみれば、龍馬は眼の上のたんこぶだったんですね。そう考えると、「龍馬暗殺の背後には薩摩藩がいた」と言われても納得してしまいます。「さもありなん」と・・・。

龍馬は大政奉還の後、「船中八策」を書き上げ、薩摩藩邸で西郷隆盛に新政府の青写真を示します。
その中に彼自身の名前のない事を訝った西郷の、「おはんの名前がみあたらんど?」との言葉に

「わしは役人にはならん」
「じゃ、何をすっど?」
「世界の海援隊でもやりますかいのう」

との会話がなされたようですね。
その場にいた陸奥宗光が書き記しています。

僕はこの下りが「竜馬がゆく」の中で一番好きな個所です。これぞ「坂本龍馬」ですね!



2009年7月27日月曜日

第18回三と一の会お知らせ

メンバー各位

第18回三と一の会を8月7日(金)にちよだプラットフォームにて19時より行います。
場所は地下のミーティングルームとなります。

久しぶりに私がプレゼンターを務めたいと思います。テーマは「226」!
このテーマは、私が3年ほど前からずっと研究してきたもので、、話すとなったら全10回あっても足りないのですが、とりあえずその1として、皆が知らない事件の一断面をご紹介したいと思います。

この写真は、平成元年の映画「226」です(確か松竹で、監督は五社英雄)。史実的には「?」というか、でたらめもありますが 雰囲気はよく伝えていると思います。

それでは、当日お会いしましょう!



2009年7月23日木曜日

もういっちょ、鹿児島ネタ

西南戦争時に官軍で組織された抜刀隊を讃えた歌です。


吾は官軍わが敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
これに従ふつはものは 共に剽悍決死の士
鬼神に恥ぢぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
起せし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべし


この作詞は東京帝国大学教授だった外山正一。 作曲は陸軍軍楽隊教師として招いていた仏人、 シャルル・ルルーであった。初演は明治18年、 鹿鳴館においてである。


「西洋にては戦の時慷概激烈なる歌を謡ひて士気を励ますことあり。即ち仏人の革命の時「マルセイエーズ」と云へる最(い)と激烈なる歌を謡ひて進撃し、普仏戦争の時普人の「ウオッチメン、オン、ゼ、ライン」と云へる歌を謡ひて愛国心を励ませし如き皆此類なり。左の抜刀隊の詩は、即ち此例に倣ひたるものなり」

作詞者外山正一はこう言っている。

これは作詞作曲とも「軍歌」を作ろうという意図を以て初めて作られた軍歌なのである。



この曲は短調から始まり、途中長調へと転じる。 (長調へ転じたところに歌詞がはいる)
愛国心を鼓舞するはずのこの歌が何故か哀しい調べに聞こえる。


前を望めば剣なり 右も左もみな剣
剣の山に登るのは 未来のことと聞きつるに
此の世に於て目のあたり 剣の山に登らんは
我が身のなせる罪業を 滅ぼすために非ずして
族を征伐するがため 剣の山も何のその
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


この歌詞など、ほとんど薩摩に肩入れしたものとしか 思えない。桐野や篠原や貴島らの奮戦ぶりを讃えているように しか思えないのだ。 作曲者ルルーが、どれほど明治10年役の事を教えられていたか わからない。しかし、この哀しい調べを聴く限りルルー自身も 滅びた西郷とそれに従った武士たちに哀切の情を感じていた事は 容易に想像がつく。


江藤淳はこのように言う。


「反逆者の軍隊の軌跡を正確に踏んで、正規軍が滅亡に向って巨歩を運んで行く。そういえば振武隊、正義隊、鵬翼隊、破竹隊などという薩軍諸隊の名称は、ほとんど富嶽隊、義烈空挺隊というような、大東亜戦争末期の陸軍特攻隊の名称を先取りしているではないか。いうまでもなく、特攻隊とは、いわば立体化した『抜刀隊』にほかならない。『前を望めば剣なり/右も左もみな剣/剣の山に登るのは/未来のことと聞きつるに/此の世に於て目のあたり/剣の山に登らんは』という状況に、敢えて身を投じて亡びようとするからである。」

「ここにいたったとき、国軍は、つまり帝国陸軍は、全く西郷に率いられた薩軍と同質の軍隊と化していた」


弾丸雨飛の間にも 二つ無き身を惜しまずに
進む我が身は野嵐に 吹かれて消ゆる白露の
墓なき最後を遂ぐるとも 忠義のために死ぬる身の
死にて甲斐あるものならば 死ぬるも更にうらみなし
われと思はん人たちは 一歩もあとへ引くなかれ
敵の亡ぶるそれ迄は 進めや進め諸共に
玉散る剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべ


作詞者外山正一がこの詩を発表したのは明治15年。35才の時。
幕臣の子として蕃書調書に学び、最初の日本人留学生として米国ミシガン大学に学んだ秀才であった。
彼もまた亡んだものへの哀切の情、西郷や桐野の、そして特攻隊の諸士のエトスに通じるものを共有していたに違いない。

再び江藤淳。

「滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ」

出所:「南洲残影/江藤淳/文芸春秋」

今日は鹿児島

鹿児島と言えば、西郷隆盛です。彼ほど愛された人物は日本の歴史上存在しないのではないでしょうか?
つくづく考えてしまいます。
でも、かれは新政府に弓を引いた賊軍の大将ですよ!
何故こんなにまで顕彰されているのでしょうか?僕自身は、彼を好きでも嫌いでもないのですが、若い頃もそして今ですら目標としたい人物ではありません。その理由は簡単で、同じ人間としてのスケール感を持てないからです。けた外れと言うか、彼の度量を測り知れないからです。
それと、倒幕の頃の西郷と、維新後の西郷は人物が変わってしまったのではないかと思うほど、その行動が異なっていると思っているからかも知れません。倒幕の中心だった頃の西郷は、リアリスティックな革命家で、物事をかなり正確に、論理的に捉えていたかと思うのですが、征韓論に敗れて下野してからの彼はそれがすっかりなりをひそめるような気がするからです。

「おはんら、一体なんちゅうことをしでかした!」

西南戦争は、西郷のこの言葉から始まりました。鹿児島私学校生徒が、政府の弾薬庫を襲ったときの彼の言葉です。
巷間言われていることですが、西南戦争時の彼は、一切の指示も決断もせず、ただ周りに担がれたままでした。彼は、この言葉を発した時に自らの運命を悟ったのではないかと思います。

「拙者儀今般政府への尋問の廉之れ有り」
これにはじまる鹿児島からの出陣も、ついには負け戦となって再び鹿児島への逃避行となります。 西南戦争は哀しいですね。 僕には、武士の中でも戦国の美風をひときわ遺す薩摩兵が、自ら滅びの道を選び取り、そして当初の目的通り、滅んでしまったように思えるからです。

「西郷、もういい加減にせんか」
病床にあって、乱の行方を心配していた木戸孝允は、こう云いました。 しかし、「いい加減」にはできなかったのでしょうね。儒教的倫理観の固まりのような大西郷は、維新後の世の中の全てが汚らわしく、特にかつて武士としての埃を捨て、自らの栄達ばかりに奔走する多くの人間が我慢ならなかったと思います。そんな連中に一泡ふかすには、自らが死ぬまで戦うしか道がないと思ったのでしょう。もとより勝敗は度外視だったと思います。

彼は、この国が何百年もかけて築き上げたこの国のかたちと、愛すべき薩摩の士風とともに、滅びの道を歩んだのだと思います。 それが、彼を愛すべき人物として今なお顕彰の対象となる理由かも知れません。

西南戦争時、西郷軍の一番隊大隊長篠原国幹(陸軍少将)の子孫と、おとといは朝4時まで飲んでました。
これも不思議な縁ですなぁ。









2009年7月22日水曜日

佐賀藩と言えば・・・

山本常朝の「葉隠」が有名です。
「武士道とは死ぬこととみつけたり」の一節が人口に膾炙してますが、
「人間一生誠短きものなり。好いた事をして暮らすべきなり」や、または
「恋の至極は忍ぶ恋とみたて候」という一節が僕のお気に入りです。

先ほどの投稿でも書きましたが、幕末の佐賀藩は戦争を支えるかなり際立った技術を持った藩でした。
ここは、江戸期のある時期に超スパルタな藩士教育をしたことをご存知でしょうか?
家督相続の際、試験に合格しないと最大で8割の家督を召し上げたそうです。
そういう厳しい掟があったため、試験に合格するためテクニックのみが偏重されたようです。
それに反抗したのが、早稲田大学創始者の大隈重信でした。

「人ト生ジテ自助独立ノ権ナク、己ノ生涯ノ利害ヲ人ニ任シテ
不羈セラルルハ牛馬ニ均シカラズヤ」

彼の言葉です。福沢諭吉もそうですが、この両名、その建学の精神が似通ってますね。

そのスパルタの詰め込み教育は、昭和になってもしばらくはその残滓があったようです。
昭和40年代の司馬遼太郎の本に、佐賀県は人口当たりの司法試験合格者数が全国一と
言うことが書いてありました。今はどうかわかりませんが。

巷間、地方分権が喧しいですが、江戸期の日本のようにまた地方は豊かな文化を育むことが
できるのでしょうか?それなくしては、どこも金太郎飴のようにミニ東京が全国にできるだけでしょう。
そして、それが今の騒ぎの顛末のような気がしてなりません。