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2011年4月20日水曜日

勿体ない話

またまた新聞記事の話。今日は日経最終面「文化」からです。

4月17日日曜日ですが、中野三敏という日本文学研究者、九州大名誉教授の書かれたものです。同氏は江戸時代の洒落本や戯作本の研究者者です

彼はこう言います。

「日本の夜明けだ」という坂本竜馬の決め台詞から透けて見えるのは、それまでの日本の社会は真っ暗闇であり、それはそのまま江戸時代が暗黒の時代だったということの裏返しともなる。明治以降、それが江戸時代のイメージとしてすっかり定着し、それは戦後いっそうに強固なものになってしまった。そのため、江戸研究の世界が近代社会から何がしかの要請を受けるなどろいう事態は、殆ど起こり得ないのが常態であった。

ところが、その風向きは平成になって徐々に変わってきたというのです。

いわば、”近代”という言葉の持つ値打ちが、あらゆる局面で極端に下がり始めた。それどころか近代の歪みやひずみの指摘こそが社会の急務となり、その正当な方法として、従来最も非近代的と烙印を押されてきた江戸時代にこそ、何かのヒントがある筈とされるようになったように思う。

そして、次のように続けます。

江戸三百年の平和は、間違いなくそれ以前から蓄積された日本文化の凡てを熟成させ、あらゆる領域で江戸モデルの文明を結実させたと言える。

彼がいうには、総数で百万点にも上る江戸時代の洒落本、戯作本の僅か1%程度しか活字化されておらず、しかもその1%も明治以後の「近代」という視点から評価されたものだとすれば、残りの99%にこそ大事なものが埋まっている筈だと。

僕は、彼の言う洒落本、戯作本がいかなるものなのか、そしてそれを読める能力もありませんが、彼は、草書体の漢字とくずし字の仮名を読める能力さえあれば、99%の残りはそのまま宝の山となるというのだ。今はその99%がごみ同然になっているので、題して「勿体ない」・・・。

僕にはとても興味深い、筆者のいう「和本リテラシー」ですが、僕が大なる賛辞を彼にささげたいと思うのは、江戸時代の見直し、それも「近代」からさかのぼった視点ではないそれにあります。

日本史の時代区分として、弥生時代から古代国家の形成に至る過程を「古代化」と称する人がいます(佐原真)。同様に、戦国時代から江戸時代の初めまでを「近代化」とし、それ以後を「近代」と区分する人もいます(尾藤正英)。大雑把にわけると、日本の歴史は戦国時代を挟んで古代と近代の2つに分けられるというのです。

内藤湖南という戦前を代表する歴史学者が、日本の歴史を「応仁の乱前と乱後では、まるで外国ほども様相が異なる」と述べてており、また日本語の言葉としての歴史でも古代語と近代語に分けられるのが戦国時代らしいので、その意味からも「古代」「近代」の2つの区分が妥当なような気がしています。

このように捉え直すならば、江戸時代は「近代」という枠組みに入るわけで、ただ「西洋化」していないそれのひとつのモデルとなりえるのではないかと思います。

今日はこれまで。

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