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2011年5月2日月曜日

思想的な意味で考えるべきこと

阪神大震災の時のニュース映像で未だに鮮明に覚えていることがあります。多くの家屋が崩壊した中に立つ若い20代くらいの女性が「誰が責任とってく れるのやろ」とつぶやいた映像です。自然災害ですので、責任をとる主体なんぞいるわけがない。それなのに何でもかんでも人のせいにするというのは一体いか なる料簡なのでしょう・・・。僕にとってそれは非常に厭な記憶として残っています。その一方で、高齢の男性が崩壊家屋から助け出されて避難所に連れてこら れ、「こんなにしてもらってありがたい」とお礼を言っていた映像。この両者に当時の僕は非常に大きな世代間の断絶を感じました。

中国から支援に駆けつけた緊急援助隊が、テレビのインタビューにこたえて「自然災害は人類の敵」と言っていました。本当にそうでしょうか?それは人間の傲慢 にすぎず、もっといえば自然を征服できるという錯覚をもたらした「近代」というものの誤謬でしょう。少なくとも日本人にとってそれは「敵」ではなかったはずです。

「火事と喧嘩は江戸の華」

という言葉があります。「華」かどうかは別 として、江戸という都市にとって「火事」は日常茶飯の事でした。だから、すぐに焼けてしまうものに対して執着せず、家具や生活調度品も非常にシンプルで、 すぐに持ちだす事ができるような、外国人からみればまるで「おままごと」のような暮らしぶりだったのです。火事はその大本は「人災」かもしれませんが、一 端燃え広がればもはや「天災」ともいえるもの・・・。「地震・雷・火事・親父」という言葉がそれをよく表しています。だから、それに向き合ってきた江戸の 人びとは、それに適した暮らしをしてきたわけです。決して「敵」なんかではない。勝てるはずがない相手を「敵」としてしまったら、ただ空しいだけでしょ う。

人智は自然には決して勝てない

この自明の理を、たかだか150年を超えたくらいの「近代」というものが覆い隠してしまったわけです。いや、錯覚したのでしょうね、勝てるはずだと・・・。

こ れは、僕だけの思いかも知れませんが、多くの人が不慮の死を遂げるような事故やら災害があると、どうも「運命」とか「天命」とかいうことを考えてしまうの です。520名もの死者を出した日航機の事故の時も、僕はひそかにそれを感じていました。誰もがそんなことの起きるはずがないと、その飛行機に乗り込んだ わけで、その機を選んだのはほんの偶然でしかない。逆にいえば、本来その機に乗ることになっていた人が、たまたまその機に乗り遅れたということもあるかも しれない。 その個々の人生を考えるとき、そこに何かしらの人智を超えたものを考えてしまうのです。

個々の人生だけ はなく、その集合体としての「国家」を考えても同じことです。国家にも運命やら天命はあるはずです。今回の大震災の「災後」、その思想的な位置づけを考え るとき、この「天」というものを考えることは極めて重要のような気がしています。もっと言うなら、やみくもに突っ走ってきた明治維新以後のこの国の「近代 化」という歩みを、もう一度考えるべきだと思うのです。

今日はこれまで。

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