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2011年5月26日木曜日

戦艦大和ノ最後 初出テクスト

昨日、ちょこっと書いた吉田満の「戦艦大和ノ最後」は、格調高い文語体で綴られた鎮魂の賦だが、現在世に出ているその本(初版)の最後の文章は

「徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米 今ナオ埋没スル三千ノ骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」

で終っている。

「この作品の初稿は、終戦の直後、ほとんど一日を以て書かれた」と。著者は初版あとがきで述べている。これは日本が独立した直後昭和27年に出版 されたもの。実はこれの公刊が試みられたのは昭和21年12月に発行された雑誌「創元」であり、占領軍の検閲にひっかかり、日の目を見ないで葬られた。

その後、昭和23年には吉田健一(吉田茂の息子で英文学者)→吉田茂首相→白洲次郎経由で、占領軍の検閲解除を諮ったがこれも叶わなかった経緯もある。

二度の公刊を妨げられた著者は、それでも諦めず、昭和24年文語体を口語体に改めて書き直し、「小説戦艦大和」として初めて世に問うた。内心忸怩 たるものがあったことが容易に想像できるが、これを著者は「約三年前、或る特殊事情のために、本篇は極めて不本意な形で世に出ることを余儀なくされた」と 前出初版あとがきで述べている。何故「特殊事情」を「検閲」と書かなかったのだろうか。

昭和21年、彼が公刊を試みたその作品は、初版本とはかなり異なっており、最後の数行は以下のようになっている。

サハレ徳之島西方二十浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨體四裂ス 水深四百三○米 乗員三千餘名ヲ數ヘ、還レルモノ僅カニ二百數十名 至烈ノ闘魂、至高ノ錬度、天下ニ恥ヂザル最期ナリ」

作品の掉尾、僅か数行だけでさえ作者のメッセージは大きく変わっている。これに比べると、現行流布版の初版と題されたものでさえ、通俗的な「戦争 は嫌だ」「戦死者は可哀想」的なものになってしまっていると僕は感じる。著者の胸中にいかなる変化があったのか、今となっては知る術もない。

この初出テクストを米国メリーランド大学付属図書館から発掘した江藤淳は、それを「敗北」とみている。何にか。「戦後思想」にである。

「(前略)このような敗北が吉田氏のみならず、いかに多くの人々の内部で起ったか。それをわれわれは、敗北とは名づけず、”平和”と”民主主義” の獲得と呼んだ。もしそうであるとすれば、この場合、”平和”と”民主主義”は作品の決定的な価値を犠牲にすることによって、はじめて「獲得」されたのである」
出所:「1946年憲法その拘束/江藤淳/文春文庫」

今日はこれまで。

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