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2011年5月29日日曜日

憧憬

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
水の流れはやくして
わがなげきせきとめるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に来り石投げて遊びくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしを思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそなくべかりけれ 
萩原朔太郎

僕の好きな詩なんですが、文語というものの持つリズムや言い回しが、到底今の僕には使いこなせないものなのであこがれみたいなものを感じてしまいます。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりにも遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。

これは、当時の広い世界に対するあこがれが 胸にスーッと入ってくる。最早、当時の人々のその気持ちは僕らは持ち得ません。

今の世が幸福なのか不幸なのか。
どっちなのか・・・。

本日(28日)の日経最終面に歌人佐々木幸綱が「詩歌に賞味期限はあるか」ということを書いていました。中村草田男の

降る雪や明治は遠くなりにけり

が、高校の教科書から「遠くなりすぎた」という理由で削除されたらしいのですが、それについての違和感を記しています。前にもここで書いたかもしれません。この句は昭和6年に詠まれたものなので、ちょうど今(平成23年)になって「昭和」を偲ぶような、そんな時間間隔です。その時間間隔への草田男の哀しみは、「20世紀少年」をみて昭和を懐かしんだ世代と共通しているかもしれません。懐かしさは、時に胸を締め付けるような哀しみになりますからね。

さて、とするならば詩歌に賞味期限なんぞあるわけではなく、 その削除に賛成した検定委員の人びとの判断には疑問符をつけざるをえません。


今日はこれまで。

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