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2011年5月30日月曜日

亡くしたもの

グアム島はリゾート地として多くの日本人が訪れる島、かつてそこは玉砕を禁じられた島であった。

米軍上陸1週間後の7月27日(昭和19年)、大本営から重要電が届く。
貴官ハ万策ヲ尽クシテタトヘグアム島ノ一角ナリトモ可及的長期ニコレヲ確保サレタシ
米軍は7月29日に星条旗を掲げて以降掃討戦にはいる。この時、日本軍の兵力約5千人。遊撃戦に奮闘するも8月12日に

ここに内地との連絡を絶つ

という決別電を送ることになる。組織的戦闘の終焉である。敗残の兵1千人は、二手に分かれて更に戦い続けた。一方は、昭和20年9月4日に停戦に肯んじたが、残る一方にはその時でさえ300名を超す人間が投降を拒否し続けた。

昭和35年5月に、最後の日本兵二人が投降した。

しかし、最後ではなかった。昭和47年、横井庄一氏が生還したのである。

恥ずかしながら帰って参りました

これが帰国後の第一声であり、当時の流行語にもなった。
当時の社会に与えた衝撃は相当のものだった。

さて、その横井氏が帰国後初めて靖国神社へ参拝した時に発した言葉が

天勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすることなかれ
時に范蠡(はんれい)なきにしもあらず

であったという。「天は勾践を見放すようなことはしない、必ず范蠡のような忠臣が現れて助けてくれる」といった意味か。児島高徳がひそかに桜の幹に書き記して、後醍醐天皇に奉った詩の句とされる。

横井氏がどんな心境でこの詩を読んだのかわからない。天皇陛下を勾践となぞらえたのだろうか。だとしたら、まこともって絶妙なものであると言わざるを得ない。幼き日に学んだ児島高徳の事を思い出したのだろう。彼は高等教育は受けていない当時の大多数の日本の庶民である。

これを諳んじている人間が今どれほどいるだろう。
僕らの国は、ホントに実に多くの言葉を亡くしてしまった。

今日はこれまで。

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